インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人々に仕えた聖女マザー・テレサは、道端で行き倒れになり、まさに死を迎えようとする人々を施設に連れて行き、一生懸命にお世話しながら、看取ってあげたといわれます。路上生活者として最も貧しい生き方をしていた人々がせめて亡くなる瞬間だけでも人間らしい扱いを受けられるようにという願いから、このような働きが始まったといわれます。
ドキュメント映画でこのシーンを見たとき、ほとんどの人がシスターたちに感謝し、「祝福がありますように」と祈りながら息を引き取っていくのが印象に残りました。
使われなくなっていたヒンズー教の寺院の跡を整備し、「死を待つ人の家」をつくり、宗派を超えて受け入れたといわれます。亡くなるときには、イスラム教徒にはコーランを読んであげて、ヒンズー教徒にはヒンズー教のお祈りを唱えたといわれます。
遠い国で自分たちには関係のない出来事が起こっていたように感じていますが、実は同じようなことが、この日本の国でも発生するかもしれないといわれます。それは「2025年問題」です。東京オリンピックから5年たったら、団塊世代が全て75歳以上になり、医療・介護の提供体制が追い付かなくなるというのです。
どこの病院に行っても看取りを求める高齢者が列をつくり、いくら容体が急変しても受け入れるベッドはないのです。また、自宅で家族が看取りたくても「在宅医」に連絡しても抱えている患者が多すぎて訪問診療できない状態が発生するかもしれないのです。
実は、2016年の今でも亡くなった人の半数近くが直葬だともいわれます。葬儀というセレモニーを行わずに直接、火葬場に搬送してもらい、火葬してもらうのです。格安だからという理由で直葬を選択する人もいるようです。しかし、火葬場が混んでいたら、待機しなければなりません。大都市では1週間の待機も珍しくないのです。どこで待機するかといいますと「死者のホテル」と呼ばれる施設が必要になりますが、この費用も決して安くないといわれます。
また、ゼロ葬という言葉も最近はあるそうです。火葬のスイッチが入ったら、遺族全員そのまま帰ってしまい、誰1人遺骨を拾わないというのです。納骨堂がないとか、誰も管理したがらないというケースだそうです。遺骨は残灰として処理され、最終的には行政が処理することになると思います。このような事態に陥らないように、最後まで寄り添い、協力するNPOの働きが必要になってくると思います。
かかりつけの医者がいない状態で自分の家で亡くなると、不審死として扱われますので、今の法体制の下では安易に自宅を最期の場に選ぶのは難しいのではないかと思います。
病院にも行けないし、自宅でも亡くなるのが難しいとなると、道端で行き倒れになるしかないという人も出てくるかもしれません。自分たちとは関係がないと思っていた事態が、日本の国でも起こり得る可能性はあります。
私は使われなくなった宗教施設を活用して「死を待つ人の家」をつくり、看取ってあげることを計画しなければならない時が来ていると思います。賛美歌を歌って牧師が祈るセレモニーであれば、私は協力できますが、仏教式を希望されたときは「どうしたらいいでしょうか」と和尚さんに相談したら、「ボランティアで駆けつけます」ということでした。
また、マザー・テレサがコーランを読み、ヒンズー教のお祈りを唱えたということを和尚さんに話しましたら、「お経のテープでもいいですよ」という答えがきました。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ4:8~10)
「2025年問題」を乗り切るためには、医療界、宗教界、それに行政が互いに協力したほうがいいと思います。また、キリスト教、仏教、神道、諸教が互いの垣根を越えて連携することも大切だと思います。
神様から委ねられた賜物を互いに生かし、地域社会に奉仕するときに、この国に生まれ、また召されていくことができてうれしいと喜んでいただけるのではないかと思います。
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