どん底の人生に直面したとき、八方塞(ふさ)がりの状態を感じますが、その時は天を仰ぎなさいということを聞いたことがあります。四方八方の道は塞がれても天の窓は開いています。失敗、挫折、苦悩の中から立ち上がる力を主が与えてくださいます。
米国で出会い、SNSでつながっていた友人は、「神が『終わった』と宣言されるまで終わらない。もう1度信じなさい」と発信しています。
30年前にイスラエル旅行に行ったときの光景ですが、農夫が牛とロバを1つの軛(くびき)につなぎ、畑を耕しているのを目撃しました。日本では違う種類の動物を一緒に耕せるというのがありませんので、不思議に思いました。ガイドさんの話では軛を用いることで同じように力が出せますので、何の問題もないということでした。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28~30)
キリストと軛を共にするということは、私たちの経営の重荷、経済的な窮地、取引先との交渉など、全て共有してくださるということです。1人では何もできず、自分の力を発揮できずに立ち往生してしまいます。しかし、そばにいてくださるおかげで、どんな難局でも乗り越えることができます。
不眠症を経験した人に聞いたことですが、夜が来るのが怖いそうです。眠りたいのに眠ることができないつらさは当事者にしか分からないかもしれません。経営の悩みを抱えるということは不眠症であったり、拒食症であったり、筆舌に尽くせない体験だと思います。しかし、キリストに学ぶことで「安らぎが来ます」という言葉に癒やされます。
十字架にかけられたイエスの最期の言葉は、「完了した」(ヨハネ19:30)です。借金が完済したというのと同じ言葉です。罪の借金のために、奴隷の身分となっていた人々を完済して、解放するという意味があります。借財に苦悩している人々は「完済」という言葉を待ち望んでいます。
十字架の死が終わりではありません。キリストは黄泉(よみ)の世界に下り、さらに3日後に復活されます。この復活信仰が希望になります。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)
人生劇場には思いがけないことが起こります。仕事がどんどん舞い込んでくるのに、人手不足のために倒産するケースもあります。黒字経営なのに、現金不足のために行き詰まってしまうこともあるそうです。仕事の発注が減り、じり貧になってしまうこともあります。しかし、復活信仰は大逆転を起こすのです。
旧約聖書の創世記18章に信仰の父と呼ばれたアブラハムが、悪の満ちたソドムとゴモラを滅ぼそうとされる主なる神に、何とか思いとどまっていただけないかということで交渉する場面があります。「もしその町に、正しい人が50人いたら、滅ぼされますか、お赦(ゆる)しになりますか」と交渉し、最後は「もし正しい人が10人いたら滅ぼさない」というところまでこぎつけます。
アブラハムに学んで根気強く交渉することは、この社会ではとても大切なことです。相手が金融機関であっても、行政機関でも、取引先でも、交渉によって猶予があったり、より良い条件になることがあります。最後まで諦めない気持ちが必要です。
「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した」(詩篇81:6~7)
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