「・・・ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。・・・そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』・・・『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです』」(ルカの福音書17章11~19節)
今日開いた聖書は、どのようにすればイエスからの恵みの流れを頂くことができるのかを教えている大切な箇所です。イエスと弟子の一行が旅の途中、サマリヤとガリラヤの境を通ったときの出来事です。
境目というのは、町や村などの人里から離れた場所であり、そんな場所だからこそ生活をしている人たちがいました。それは重い皮膚病の人たちで、その当時、ほかの人々と一緒に普通の社会生活を送ることを禁じられていたのです。イエスは彼らを癒やしたのですが、イエスに感謝を言いに来たのはたった1人のサマリヤ人だけでした。
1. イエスの元に帰って恵みに感謝する
私たちクリスチャンは、口癖のように「感謝」を口にしますが、慣れ親しんでいるうちに本来の意味や中身を忘れてしまい、言葉だけの感謝に終わらないように気を付けましょう。
別の日本語に言い換えるならば、私たちは「礼儀知らず」になってはいけません。日本人の社会の礼儀として「お礼を忘れる」というのは人として情けないことです。人から物をもらったときや、優しくされたときに、それを当たり前のように受け取り、高飛車な態度や偉そうな姿勢でいてはならないのです。
兄弟姉妹、イエスから頂いた恵みに対して、ちゃんとお礼をしていますか? お歳暮のような形だけの感謝ではなく、魂からの感謝をささげる者でありたいと思います。
2. 恵みの循環と祝福の連鎖反応を生み出す
私たちは、芋づる式に恵みを与えられたいと欲するものです。しかし、それをただボーッと待つのではなく、恵みの循環が与えられるように、祝福の連鎖反応が起こるように自ら信仰の工夫をしたいと思います。
それは、イエスから恵みを頂いたら、ちゃんとイエスのところに来て感謝し、イエスを礼拝するということです。恵みの循環や祝福の連鎖反応の中には、神とのキャッチボールのようなやりとりがあることに気付いてください。困ったときだけ神頼みをして、解決したらお礼を忘れるような無礼者で終わって、恵みの循環を止めてはいけません。
3. 神をあがめ続ける人生を歩もう
私たちは、偶像礼拝や困ったときだけ神頼みする信仰者ではなく、常にイエスをあがめるクリスチャンとしてイエスの臨在に留まり続ける者へと成長することができます。祝福の秋を迎えていますが、まいた種には神が豊かな恵みを与えてくださると信じましょう。
そして、この1年でのやり残しが無いようにしたいと思います。この1年、恵みがあったときに、イエスにちゃんと感謝しましたか? お礼をしましたか? 10人の内の9人のような情けない礼儀知らずな者で終わりませんように。そして神をあがめることをライフスタイルとして、祝福の連鎖を生み出していきましょう。
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