3人はあきらめて、元の場所にもどり、机の上のノートを開きました。
「このノートに書かれていることは本当のことだと思う人には本当のことです。でも、ただのお話だと思う人には、ただのお話になるかもしれません」と、1ページ目に書かれていました。
「私(わたし)が小人の家族と出会ったのは、まだ私が画学生だった頃(ころ)、今から50年も前のことであった。小人の家族は3人。お父さんとお母さんと男の子。ある雨の激(はげ)しい夜のこと、私は紫陽花(あじさい)の木の下に濡(ぬ)れながら立っているこの一家に出会った。私は夢見がちな若者(わかもの)だったから、彼(かれ)らに出会ったことがたいそううれしかった。天からのプレゼントのように感じて、彼らをすぐにアトリエの中に招(まね)き入れた。彼らも私をひと目で気に入ってくれたらしく、それから私たちは毎日楽しく過(す)ごすようになった。
私の住まいは2階に粗末(そまつ)なベッドのある寝室(しんしつ)があるだけで、台所と風呂や便所は1階のアトリエの奥にある、なんとも殺風景な場所であったけれど、小人の一家が来たあとからは、とても楽しい住まいに変わってしまった。
小人のために私は作業をした。小さなベッドやテーブルや椅子(いす)を作った。それは私にとって楽しい時間だった。布(きれ)や綿(わた)を用意したら、小人のお母さんが布団(ふとん)やクッション、自分たちの着る服を作った。皮を用意したらお父さんが靴(くつ)を作った。小人たちは昔から大変器用な職人(しょくにん)だったが、この家族もまた、祖先(そせん)たちに負けず立派(りっぱ)な職人だった。私のために錫(すず)で蝋燭(ろうそく)立てを作ってくれた。きれいな音の出る小さな鐘(かね)も作ってくれた。
そうそう、小人たちの名前を記しておこう。お父さんはテラ、お母さんはルー、そして男の子はビタエ。彼らには名字は無い。
そのうちに戦争が始まり、この田舎(いなか)にも疎開(そかい)する人たちが増(ふ)えてきたので、万一のために私は小人たちを地下室に移(うつ)し、人の目に触(ふ)れないようにかくまうことにした。私は結核(けっかく)を患(わずら)ってようやく治ったばかりであったので、戦争に行くことも無く、山の中で絵を描(か)いて過ごすことができた。
病気になったときには、なんと自分は不幸であろうかと思ったものだが、空気の良い山の中にアトリエを建て、いざという時には地下室を防空壕(ぼうくうごう)として使うこともできたのだから、感謝(かんしゃ)しなければならない。私は早くに両親に死に別れ、たった1人の弟は戦争に行き、消息不明であったから、小人の家族は私にとって新しい家族のように思われたのだ。
彼らは実に気持ちのいい人たちであった。小人は歴史のはじめの頃に神様が造(つく)られた人たちであったらしい。その頃は巨人(きょじん)もいたという。しかし、地上では、そういう古い人たちの子孫はだんだん絶(た)えていき、伝説として聞くしかない時代になってきたのだが、運のいいことに私は彼らにめぐり合い、小人の家族と私とは、まことに麗(うるわ)しい交わりをもった、幸せな生活をすることができた。戦争という悲惨(ひさん)で悲しい中であってもであった。
そのうちに戦争が終わり、平和が戻(もど)ってきた。弟はアメリカの捕虜収容所(ほりょしゅうようじょ)に入れられていたのだが、無事に帰還(きかん)してきた。彼はその地でキリスト教の信仰(しんこう)を与えられて、別人のようになって帰ってきた。奥さんと10歳(さい)になっていた1人息子の常雄が、疎開(そかい)先から引きあげて来て、私と同じ県内に住むようになると、甥(おい)の常雄が、わたしのアトリエをたびたび訪(たず)ねてくるようになった。彼は絵が好きで、わたしに絵の手ほどきをしてほしいと頼んだ。
画家としてやっていくのは大変であるけれど、趣味で描く分にはよかろうと思い、私は彼と一緒(いつしょ)に絵筆を取った。
そんなある日に、常雄はたまたま小人の家族に出会ってしまった。常雄は子どものビタエにとって初めての友達になった。彼らはまたとなく気があって、人間と小人という境(さかい)を越(こ)えた友情(ゆうじょう)をもち、そのうちにどうした次第なのかはっきりしないが、テレパシーのようなもので互(たが)いに離(はな)れていても通信できるようにさえなった。
わたしはもともと風景画や、抽象(ちゅうしょう)画を描く絵描きだったが、小人の家族の姿をどうしてもカンバスに留(とど)めておきたいという願いが強くなり、しかも、それとわからないままに世間にその姿を示したいという欲(よく)も出て来て、展覧(てんらん)会に出したところ、高い評価(ひょうか)を与えられた。それ以来私はメルヘンの画家、小人の世界を描く画家として知られるようになっていった。
そうこうしているうちに、小人の父テラが亡くなった。しばらくして後を追うように母ルーも亡くなった。残されたのはビタエ1人になった。
わたしはビタエが哀(あわ)れだった。何とかして生き残った仲間がいるのなら探(さが)し出して一緒に暮(く)らせるようにしてやりたいと思った。その頃、常雄は大学を卒業し、技師として勤(つと)め始めていた。
ある秋のこと、常雄が山の中を歩いて測量(そくりょう)をしていたとき、不思議な石を見つけたのだ。赤や青や緑の透(す)き通った丸い石であった。きれいなものだから、久しぶりに私のところに来て、ビタエにお土産(みやげ)に渡(わた)したところ、ビタエの顔色が変わった。
この石のあったところに連れていって欲(ほ)しいとビタエはせがんだ。これまで隠(かく)れて生活していたのに、どうしても行きたいという。私たちはビタエを籠(かご)の中に隠して、車でそこまで出かけた。山奥の人気(ひとけ)も無い場所であったが、私は籠をかかえて、常雄の後について行った。
石のあった場所の奥は洞穴(ほらあな)になっていた。そして、そこには別の小人たちが住んでいた。ビタエはそうやって仲間を見つけ、彼らと行動を共にすることになった。赤や青や緑の石は小人同士の通信装置(そうち)であることが分かった。私たちはいざという時のために石で通信するやり方を習った。ビタエと常雄の間にはテレパシーのような通信方法も残されていたが、私はそのやり方は生涯(しょうがい)できなかった。
そうやってアトリエの地下室は、主人公の小人たちを失ったメモリアルの場所になった。私たちは初めて小人に出会った紫陽花の木の下にモニュメントを建て、テラとルーのなきがらを、木の棺(ひつぎ)に納(おさ)めて葬(ほうむ)った。両親の墓地(ぼち)と地下室の住まい、この2箇(か)所がある限り、ここはビタエにとって大切な場所であり、他の誰(だれ)もが踏(ふ)み入れることのできない聖域(せいいき)なのだ。
だから私はこの敷地(しきち)とアトリエを常雄に贈与(ぞうよ)することにした。彼なら私の気持ちが十分(じゅうぶん)に理解(りかい)できるだろうから。しかし、もし、もっと時がたって、常雄も天に召(め)されるようなときに、この場所に来て、このノートを読む人がいたら、私の手記をメルヘンの1つと思ってくれてもいい。本当にあったことだと思ってくれてもいい。どちらであっても、この場所を大切に思ってくれるのなら、どんなにうれしいことだろう。
そろそろ私の人生も終わりに近づいてきたようだ。私は孤独(こどく)ではなく楽しい生涯(しょうがい)を過ごすことができたことを、神に感謝したい。
月山(つきやま) 満(みつる) 記す」
3人組はこのノートをログハウスに持ち帰り、本だなから辞書を出して来て、一所けん命に読みました。(つづく)
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