第1章 所かわれば品かわる
その4
ひとたび宣教師が、その地の人たちの生活に精通すれば、信仰上の真理を表す語句に不足することはありません。しかしながら、見かけは不適当と思われる語句にも、信仰上の意味を豊富に持っているものもあります。
例えば、メキシコのクイカテック語やツェルタル語では「信じること」と「従うこと」の違いを表すことができません。ちょっと見たところ、このような区別がないと、その言語は貧弱である、と片付けてしまいたくなります。これらメキシコの先住民たちは、多くの人々から、救いようのないほど未開で後進的であると目されていますが、私たちが「信じること」と「従うこと」の区別を主張するのに、あからさまに驚いてみせるのです。
彼らの論理では、この2語は1つでなくてはならないのであり、それはまた理のあることなのです。「だって、信じていて、しかも従わないんですか」と言うのです。「それに、言うことを聞くのは、信じてるからじゃあないでしょうか」。彼らの言い分は全く正しいのです。間違っているのはわれわれです。われわれは区別する必要のないものを区別して、しかも、なまじ語彙(ごい)があり余るために、おのれをあざむいて巧妙な偽善に陷り、神に背き続けていながら自分は神を信じる者である、と考えることになるのです。
物の道理をわきまえている人ならば、これらのクイカテック人やツェルタル人が、一見全く未開でありながら、私たちよりも真理に近いことを誰でも認めるのです。少なくとも、彼らは宗教上の精神分裂になる心配はありません。ところが、われわれのいわゆる「文明」世界では、(信じることと従うことが分離し)このためひどい人格の分裂をきたし、隣人をあざむくことこそしなくても、自分をあざむいて、信者ぶる人が多いのです。
翻訳宣教師はみんな、文字を持たない言語ばかりを学ぶものと考えてはいけません。文字の伝統を古くから持った言語を習得しなければならない地域にも、多くの翻訳者が出掛けて行きます。インド、ビルマ(現ミャンマー)、シャム(現タイ)、中国、日本への宣教師は、新しく文字をつくり、文法を編む必要はありません。もっとも、現行のものが不必要に複雑なので、初めからやり直したほうがまだましなこともあります。これらの言語にも問題はあるのです。
最も著しいのは正書法が複雑であることです。これらの字母の中には、古代サンスクリットから派生したもので、多少なりとも正確に言語の音声を表しているものもあれば、中国語のように、一語一語が異なった文字によって象徴されている象形文字があるだけで、アルファベットに当たるものは全然ないものもあります。また、日本語に古くから伝わっている書き方のように、象形文字と音節文字とが一緒になっているものもあります。
このような書記法も、やっかいなものでありますが、同じ言語であるのに「縦」に存在している語彙と方言(社会方言)の違いに比べれば、まだましのようです。ここでわざわざ「縦」にと言うのは、この方言が国内の地域による差ではなく、話者の社会的地位による差であるからです。この障壁を打ち破るのは地域方言以上に困難です。というのは、これらの方言は人の作った組織を反映しており、搾取や階級制度を維持する意図を持っていることもあるからです。
ほとんど全ての宗教用語が古代サンスクリット語の派生語であり、仏教僧の言葉をそのまま借りているパーリ語では、どのような手を打ったらよいものでしょうか。こういった言葉は宗教指導者と目される人たちには長い間使い慣らされてきているのですが(13)、一般の人たちには、ちょうどラテン語のミサが、英語を話す人たちの多くにはチンプンカンプンであるのと同じく、全く意味が通じないことが多いのです。こういった言葉は、たとえ抹香(まっこう)臭くて、ありがた味が感じられても、霊的に人々を諭すことはできません。
東洋人の生活には、このように文語と宗教用語が根強く食い込んでいるので、この伝統の鎖をここかしこと断ち切るのも一朝一夕にはまいりません。けれども、人々は真理を求めて、自ら神の啓示を知りたいと願っているので、ただ単に耳ざわりのよい言葉だけに満足してはいません。平易な、内容のある言葉を欲しています。
こんな理由で1950年に日本の聖書改訳委員会は、聖書の大規模な改訳事業を途中で断念し、再出発しましたが(14)、今度は普通の人の口語に訳すことになったのです。
(注13)たとえ意味が分からなくても、仏教でお経を唱えることで極楽に行けるというようなこと。
(注14)「日本語聖書」は、1899年に聖書全巻が翻訳され、その後改訳が行われ、1919年に新約聖書のみ出版されたが、いずれも文語訳であった。旧約聖書の改訳も進められ、一部は出版されたが、それを中止し、新しい口語訳の聖書が1955年に出版された。その後も幾つかの翻訳が出版されているが、いずれも口語訳である。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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