第1章 所かわれば品かわる
その3
誤訳の中には、そんなに容易に発見されないものもあります。というのは、訳者は住民やその習慣に関して深遠な知識がなくてはならないからです。例えば、メキシコのアステック語派のサカポアストラ語では、ヨハネによる福音書8章56節のyour father Abraham rejoiced to see my day(あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた)という句を逐語訳することは不可能であります。
この句は、イエスによって語られたものですが、サカポアストラ・アステック人には、イエスが実際には動物であり、近親相姦の罪の日を送りつつも、呪医(じゅい)に化けているのだという意味にとられます。というのは、呪医は本当は人間ではなく、邪悪な獣であると彼らは信じているからです。しかも、昼間はこの獣は人間の格好をしていて、化けて出ているくせにその変幻(へんげん)の姿をmy day(私の日)と呼ぶのです。
長年使われて神聖化されている用法でも無審査で通用するとは限りません。東アフリカのある言語で宣教師たちは50年以上も「主がなんじの霊と共にあるように」(ガラテヤ6:18参照)と言っているつもりでした。ところが、やっと最近になって微妙な文法上の違いのために、この重要な祈祷が実際には「はい、主はあなたたちと共にいてください、私たちは欲しくありませんから」という意味であることが分かったのです。
この事実が明瞭になったとき、宣教師たちは原住民の兄弟に抗議し、こんなに長い間宣教師が間違いをしているのになぜ黙っていて注意しなかったのかととがめました。彼らの答えというのはこうでした──宣教師は珍しいことをいろいろ言うくせがあり、どの宣教師もその誤りの点では一致していたので、意味は妙だと思ったが、本当に間違いないと考えていたというのです。
これに劣らず、不都合なのはわれわれが耳にしたミツパの祈り(注10)です。「私たちがお互いに離れているとき、私やあなたを主が見守って下さるように」(創世記31:49)というのですが、原文の文脈では、2人の嫉妬深いペテン師が、互いに相手から身を守るために神を呼んだことになります。それをこじつけて、相互の祝福と恵みを祈る言葉に転用してしまったのです。
ある言語の核心に旅して途方にくれることがよくあります。というのは、われわれの思考の道標である英語の慣用句に瓜二つのもの、もしくは、少なくとも、ぴったりそれに対応するものは、なかなかないからです。実際には、対応する言い回しがまるで正反対と思えることも多いようです。
例えば、スーダン(注11)に住む、あのひょろ長いシルク人たちは、けち臭い人のことを「大きな心を持った」と言い、気前の良い人を「小さな心を持った」と言います。われわれはこの言い方をおかしいと思いますが、シルク人たちには当たり前のことであって、その慣用句の合理性を弁じる段になると、われわれが英語の慣用を論じるのと同じことで、一歩もひけをとるものではありません。
彼らの主張はこうです。すなわち、利己的な人というのは、なんでもかんでも掴(つか)みとって、それを心にしまいこんでいる人である。従って、その人の心は大きい。ところが、気前の良い人というのは、持っているものを全て与えてしまっている。従って、その人の心は小さいのである、と。これは全くうがったことを言ったものであり、英語の対応句におとるものではありません。しかし、こういった新奇な慣用的な比喩に出会うと、われわれはよく途方に暮れて、自分自身の無知を棚に上げ、物の分からないのは、われわれではなく、現地人側であると主張したくなるものです。
メキシコのマサテック族の人たちは奇跡のことを「鶴の首」と言いますが、キリストの不思議な御業をそんなふうに言うものではないという人もありましょう。でも、ちょっと調べてみますと、この言い方はまさにそのものずばりということになるのです。人知で計れない出来事こそは確かに、「なんだ、なんだ」と言って、首を長く伸ばして見たくなるものなのです。この言葉には、イエスにいつも従っていた物見遊山の群衆が生き生きと写し出されています。
パナマにいるバリエンテ人は権威ある人のことを口にしますが、「権威」という抽象語がありません。強いて言えば「柄を握っている人たち」という短い、単純な句があります。これでは私たちには、さっぱり分かりません。ところが、バリエンテ人はマルコによる福音書11章28節、「何の権威によってこれらのことをするのですか」を文字通りには「どんな柄持ち人がこれらのことをしなさいと言ったのですか」という具合に理解するのです。バリエンテ人にとって、猟刀の柄を手にした人は、すなわち統治者であるわけです。
つまり、「彼が柄を握っておれ」ば、ほかの連中は刀の刃しか握れませんし、もちろん、そんなことをしようものなら、けがをします。というわけで、ただ独り統治者だけが刀を振り回し、その力をほしいままにすることができるのです。それこそ、つまり権威者なのです。
こんなふうに豊富な言い回しがたくさんあるのに、いわゆる原住民語には、霊的な、そして聖書的な概念を表現する言葉の持ち合わせが十分でないのではないか、といぶかる人がいまだにいます。こんな疑問を持つのは、明らかに独りよがりのうぬぼれと無知を暴露しているようなものです。そしてこの誤解は、徹底的に指摘する必要があります。
もちろん、言葉の探求を始めて最初の数日くらいは、「愛」とか「信仰」「観念」「感謝」「救い」など、宗教上の真理を述べる豊かな言葉は見当たらないでしょう。実際に、何週間も何カ月も翻訳宣教師は適当な言葉を見つけ出せないことがあります。それはちょうど、探鉱者が一目でダイヤモンドや金を発見できないのと同じで、言葉の探求者も、忍耐強く探し求めなくては、初めから珠玉のような言葉に出会うなどということはないのです。
しかし、だからといって、その土地の人たちには宗教上の真理を表す適当な言葉がない、ということにはなりません。バリエンテ人は「神にある希望」ということを考えるとき、「神による心の安らぎ」という実に鮮やかな表現を使います。「心の安らぎ」は「待望」と「確信」をも意味します。「希望」の定義として「確信のある待望」に勝る言葉がありましょうか。私たちが平凡に定義するものを、バリエンテ人は、頭に焼きつくような例えをもって描き得ているわけです。
このような信仰用語の中には、土地の人たちの生活や文化を反映するものを、焼き直した言い方もあります。リベリアのグベポ人のところにいた宣教師が「預言者」に当たる適当な言葉を見つけたいと思っていました。現地語の「占者」や「予測者」が神の代弁をする聖書の「預言者」に相当しないことに彼女は十分気付いていました。もちろん、預言者は未来のことを多く語るもので、それがまた預言者の多くの使命のうちで肝心なところですが、やはりそれだけが全てでは決してありません。
グベポ人のために使う言葉は、重大な事件を占うだけでなく、神の代弁者として人々に真理の証しをするという意味を含めたものでなければなりません。ついに的確な言葉がありました。それは「神のおふれ役」でした。朝な夕な、首領の代理人として首領の言葉を代弁する役人がニュースを大声でどなりながら村を回り、首領の命令を伝え、重要事項を前もって通告するのです。
「神のおふれ役」は神の公式な代理人で、神の御業や神の命令、また人々の救いと幸いのための神の御言葉を宣べ伝えるということになっているものです。グベポ人にとっては、預言者は太古に生きた超自然的なものなどではないのです。無神経な人々への「神のおふれ役」になった牧者アモス(注12)と同様、心打つメッセージを伝える正真正銘の人間なのです。
不注意な旅人が、本当の値打ちが分からなくて、大切なものをよく見落としてしまうように、翻訳者も貴重な表現を無用のものとして省みようとしないことがあります。このような語句は、現地生活の豊かな秘密のなかに巧みに変装して、その完全な意味を隠しているからです。
中央アフリカ共和国のカレ人の間で働いているエステラ・マイヤーズ女史が実際にそれを経験しました。彼女は、その土地の助手に「慰め主」の意味を何とか説明しようと苦心していました。この言葉は、ギリシア語のparacletos(慰め主)から音訳されたものですが、聖書の中で、最もきちんと訳しにくい言葉の1つです。何かぴったり当てはまる言葉を探そうとして、彼女は、聖霊の業と行いとが、キリスト者を励まし、戒め、諭し、守り導き、慰め、そして道標を与えるものであると言って、微に入り細に入った説明をしました。
とうとう、その土地の助手が叫びました。「ああ、私たちのためにそんなことをみんなしてくれる人がいるとすれば、私たちは、その人こそ『われわれの傍らにかがみこむ人』であると言いますね」。これは聖霊の御業を説明するのには一見全く不十分で、的(まと)はずれの用語に思えましたので、もし、この言葉が用いられている特別な状況を現地の人が熱心に説明してくれなかったら、採用されずに終わるところでした。
運搬の人夫が頭上に重い荷物を載せて長い旅に出掛けるときには、2カ月も3カ月もそれが続きます。中には、途中マラリアや赤痢にかかってしまう者もあります。こういう人は体が弱って、かつぎ人夫たちの行列の一番後にあえぎながらついてゆく始末になり、揚げ句の果てには全く力尽きて、次の村の安全なところに着かないことには、夜中に野獣に食い殺されてしまうことは重々知りつつも、小路の傍らにくずれるように倒れてしまうのです。
ところで、小路のそばを通りかかった人が、そこに倒れこんでいる人を見て同情し、かがみ込んで助け起こし、安全で無事な次の村にたどり着くまで世話をしてくれることがあると、彼らはこのような人のことを「われわれの傍らにかがみこむ人」というのです。そこでこの翻訳宣教師は「慰め主」の訳語をこの言い回しにすることに決めました。というのも、この慰め主こそ、神の子らの天国への旅路を励まし、守り、支えてくださるお方であるからです。
(注10)「ミツパの祈り」、ミツパとは、ヘブライ語で「見張り所」の意味。別れの時、時に死別の時に、神に委ねる祈りとして用いられるが、元来は、本文にもあるように、ラバンとヤコブの間の契約の言葉。
(注11)「スーダン」、本書初版では、アングロ・エジプト・スーダン、1899~1956年までの呼称。現在はスーダン共和国。
(注12)「アモス」、前8世紀、ユダ王国で生まれ、イスラエル王国で預言者となった。羊飼い、また農夫(いちじく桑を栽培)をしていたらしい。原文ではplowman(農夫)とあるが、そもそも聖書では「牧者」と紹介されているので、翻訳では、そのようにした。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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