第1章 所かわれば品かわる
その2
こういった現地の宣教師たちが学びたいと思う言葉に、辞書や文法書のあることはまれです。実際には多くの場合、文字さえありません。とにもかくにも、原住民と一緒に座って、あれこれの語を尋ねるよりほかに手がありません。
それにしても、「これを何と言うの」と聞くことさえできないことがしばしばあります。この出発点になる語句をさぐり当てるのに、数週間もかかることがあります。初めは、座って下唇を突き出し、その唇で物を指さなくてはならないこともあります。というのは、世界には、指で物を指すのは大変失礼で、下品なしぐさだということになっている地方も幾つかあるからです。
発音のやっかいなことは、どこまでいっても際限がありません。原住民同士は、お互いに完全に通じ合っているらしいのですが、アルファベットで書き表すようにしてみると、その音たるやキーキー、ギャーギャー、ブーブー、パチパチ、シューシューと豚の泣き声よろしくといったものが多く、口の回りそうもないところに奇妙な母音がくっつくといった具合です。舌打ちに似た音を幾つも持っている言語もあって、次の母音がくる前に息が口の中へ入ってくるのです。
誰でも子どもをたしなめたりするとき、ツッ、ツッと言いますし、馬を使うときなどは、口の両側に沿って息を吸い込みます。ところが、南アフリカのブッシュマン(注3)やホッテントット(注4)の言語では、この舌打ち(吸入音)には20種もの違った型があって、それがいちいち言語の規則的な語形式の要素になっています。
コノブ語(注5)のtsu(唾)とts'u(キス)の2語を区別することなどは、多くの宣教師にとって容易なことではありません。後者の語においてts'と書いてあるのは一種の破裂音で、唾を吐くときの音であると説明できましょう。ところが不思議なことに、この音は「唾」ではなくて「キス」を意味する語と結びついているのです。「唾」に結びついた方が論理に合うように思えるのですが、理由は誰にも説明できません。言語にはどの言語であれ、このような変則は多いのですが、これはその一例にすぎません。
いかに面倒でも、事が発音だけなら、まあ何とかならないものでもありません。が、ある言語の文法ときたら、少なくとも初習者には、とりつく島もないほどの代物です。次のようなボリビア・ケチュア語に直面したなら、どうしたらいいと思いますか。
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文字の数が32もあるのはまだいいのです。ところが、この語が明らかに8つの文法上の部分からなっており、その各部は常に正確にこの順序でなくてはいけないし、この語全体の意味が「君の絶えず遂行している未来の仕事に関して」であると聞いては、練達の士でもたじろぐ人が多いことでしょう。ボリビア・ケチュア語では、どの動詞の語幹にも、少なくとも20種の異なった接尾辞や小辞からなる5万以上の結合を加えた派生語を作ることができます。こうして、上述のような複雑な形が出来上がるのです。
いわゆる原住民語の奇妙な文法に直面しても臆しなかった宣教師たちは、「文化の遅れた」民族の語彙(ごい)を覚える段になると、事はいとも簡単で、得手に帆を揚げ、といった気でおります。
ところが、ズールー語のように、歩く動作を説明するのに120もの異なった語がある言語に接して、仰天してしまうのです。「もったいぶって歩く」「威張って歩く」「小さくなって歩く」「ピッタリした服を着て歩く」等々、いちいち別の語があるのですからたまりません。また、マラガシ語を話す島民が200以上の物音を区別する語を持っており、優に100の色を語句によって区別するのを見て、マダガスカルに行った宣教師は唖然(あぜん)としてしまいました。
このような耳慣れない発音や文法形式、それに数知れない新語にとりまかれては、無理からぬことですが、中央アフリカ(注6)の一宣教師は、かわいそうに、すっかり頭が混乱して、「天国に入れ」(マタイ5:20参照)と言う代わりに「行って木に腰をおろせ」と説教していました。
コンゴのいま1人の宣教師は、バプテスマのヨハネのことをいつも、荒野で「泣く者」(ヨハネ1:23)(注7)と語っていました。また、昔の預言者たちも異口同音に、人々に対して「泣きわめいて」いたというのです。しかも彼の直訳は、まだ物も言えない小さな赤ん坊の泣き声だけの意味だったのです。彼の説教は全く不可解なものであったに違いありません──神の使者たちが、みんな泣きわめく赤ん坊だと思えたのですから。
逐語訳は、最も安易なものですが、危険で、誤訳の原因になることが多いものです。ラテン・アメリカの宣教師は絶えずIt came to pass(注8)(「ということになった」の意、ルカ2:1参照)という句を逐語訳して使っておりましたが、それを聞いていた住民には、それが「何かが整然とやってきて、そこを通った」という意味だったことに、考えもおよびませんでした。その文脈がもともと難しいところにもってきて、このような意味をなさない混乱が加わっていたわけです。
また、宣教師たちが「イエスの足下にひざまずく」マリアの話を、西アフリカのある言語に直訳しておいたところが、後になって、それが「イエスの膝にのっかっている」マリアという意味になっていることが分かったのです。
英語を話す会衆に向かってこそheaping coals of fire on one's head(熱き火を人の頭に積む──うらみに対し徳を行って人を恥入らせること、ローマ12:20)(注9)という表現が使えますが、これをそのままアフリカで使うと、場所によっては、大変な誤解を生じます。というのは、これは今なお拷問と死刑の一手段であるからです。
善意の翻訳者が、原住民の語を単純に文字通りの意味にとったばかりに、取り返しのつかない間違いが生じています。それでだんだん用心深くなって、一語一句おろそかにせず、再三照合しなくてはならなくなります。これもしばらくの間気付かずにいたことですが、リベリアのある言語で住民たちが「主の祈り」(マタイ6:9~13)を唱えているのを聞くと、その一部が「われらを試みにあわせず」でなくて「われらが罪を犯すとき捕らえ給うな」となっていたのでした。
原住民の慣用句についての知識が極めて不適切であったため、初期の宣教師たちは「主の祈り」を説明できずにいました──特に上述の句などそうですが──ので、住民たちは意味の通りそうな文句を勝手に入れていたのです。「未開人」であると「文明人」であるとを問わず、この世の多くの人々にとっては、逮捕でもされない限り罪ではないと考えるのが実情なのです。このリベリアの住民たちは、その信念を少しあけすけに口にしたにすぎないのであり、聖書の教えを都合のいいようにちょっとばかり我田引水していたわけです。
(注3)「ブッシュマン」、侮辱的な意味を含むため、現在では一般的にサン人と呼ばれる。現在は南アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族である。詳しくは、ウィキペディア「サン人」参照。
(注4)「ホッテントット」、現在はコイコイ人と呼ばれる。南アフリカ共和国からナミビア付近の高原に住んでいる。
(注5)「コノブ語」、グアテマラで話されているマヤ系言語の1つ。
(注6)「中央アフリカ」、1910年、フランス領となり、1958年、フランス内自治領となり、1960年、フランスより独立し、中央アフリカ共和国となった。
(注7)「泣く者」、英語ではcryingであり、実際には、この場面では「大声で叫ぶ」の意味であるが、「泣く」意味のcryと翻訳していたわけである。
(注8)「it came to pass」、ギリシャ語でginomaiは、「起こる、生ずる」の意で用いられ、何か重要な記事の前に「次のようなことが起こった」という意味で用いられる。ジェームズ王訳の福音書で好んで用いられている。
(注9)「heaping coals of fire on one's head」、ヘブル語の辞典の「ガヘレット」を見ると(燃えている炭火)とあり、それは稲妻を表し、神のさばきを表すために使われていると書かれている。そして、次に「頭に炭火を積む」というのは諺(ことわざ)で、「大きな痛みと苦しみとをもたらすような人またはもの」、さらに「圧倒的な親切によって、相手が悪意を持ったことを痛み恥じ入るようにすること」とあって、箴言25:21、22の例が挙げられる。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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