第1章 所かわれば品かわる
その5
永遠の真理を日常使っている言葉で表すことは、まさしくギリシャ語新約聖書の文体を反映していることなのです。新約聖書の各書は、紀元1、2世紀の教師たちが使ったアジア風の大げさな文体で書かれたものではなく、普通の人たちの言語で表現されました。彼らは生ける復活のキリストについての真理を求めていたのです。命を求める人たちにとって、旧式な文法の、もはや用をなさない文体などは不用であります。そのように今日でも、翻訳宣教師たちは、この伝統に従って、たとえその土地の慣用語がわれわれに奇異にひびいても、日常の言葉で神の御言葉を人々に伝えているのです。
たとえば、エチオピア教会にいるウドゥク人は、「心配ごと」とか「思いわずらい」とかを、「肝臓きものふるえ」と言っております。従って、ヨハネによる福音書14章1節は、英訳聖書とは感じが違います。すなわち、「あなたがたは肝臓をふるわせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい」と言います。それでも、ウドゥク語の聖書は私たちのためではなく、ウドゥク人のために訳されるのですから、福音の意味をこの人たちの生活の言葉で理解しなければならないのであって、私たちの生活感情に左右されることはないのです。
ナバホ人もまた、「思いわずらい」を口にしますが、その表現がまるで違っています。「私の心が私を殺そうとしている」と言います。おそらく、ナバホ人は私たちが考えているよりはるかに優れた心理学者なのでしょう。われわれはやっと最近になって、精神状態に影響される病気が恐ろしい結果を招くことについて理解し始めたばかりです。
心配というものは、ついにはほかのどんな病にも劣らず命取りになるのですが、ナバホ人はこの真理を感じ取っていたわけです。ナバホ人が長い間、心配について複雑な科学的研究と実験を重ねた結果、このような表現に到達したと思うべきではありません。彼らの間に自然に発達した慣用句の中に、彼らは、私たちが精神病医にお金を払って教えてもらうようなことを、無意識に認めているのです。
いわゆる「未開言語」の耳慣れない慣用語が持っている表現を、宗教的経験の威厳を損なう、いかがわしいものであるとする人がいます。メキシコのクイカテック人が「礼拝する」というとき使う言葉など、その例でした。しっぽをふっている犬を言うのと同じ語幹を持った語です。ただ違うのは、動詞に含まれる主語代名詞が動物を指しているのではなく、人間を表しているだけのことです。
このクイカテック語を文字通りに訳すと、「神の前でしっぽをふる」、とりもなおさず「神を拝する」ことになるのです。このような言葉は、宗教生活に不似合いで、人を動物視し、人格の尊厳を傷つけるものだ、と主張する人もありましょう。が、そんなことはありません。このクイカテック人は、真の礼拝には、飼主に対して犬がふるまう態度と非常に似たものがあることにはっきり気が付いているのです。
犬が主人に対するように、人間も神を献身的に真心から認識するとしたら、全く立派なものです。重大な審判がなされようというのに、法廷で自分の主人を裏切るような犬はいないでしょう。ところが、社会の圧力があると、社会的に受け入れられるためには、自分の主なる神を拒む人間はたくさんいるのです。これらクイカテック人は、「信じる」と「従う」の区別もできず、また「礼拝する」ことと犬の主人に対する態度とを結び付けていますが、これは多くの神学者よりはるかに鋭い洞察力を示しております。
それら神学者の理論は、自己流の宗教的進化論という空中鈎(かぎ)に吊るされて、抽象の梁(はり)にぶら下っているのです。宗教生活に使われる言葉は、宗教生活が生活そのものであるという人の日常経験に根ざしたものでなくてはならないのであって、手際よく切り離した生活の一部についての理論だけに基いたものであってはなりません。
かといって、いわゆる「未開人」が、文明によってすっかり破壊されてしまった直感力を持っているなどと、速断してはなりません。どんな民族も、ぎこちない、ぶざまな言葉で、生活の諸相を描写することもあれば、また他面、生活経験を写すのに、生き生きとした言葉で描き出していることもあるのです。「施し」をキコンゴ話者は文字通りには「愛の贈り物」と言いますが、生活を生き生きと表している1例です。
確かに施しは「愛の贈り物」であるべきで、その辺で行われる共同募金月間に、赤い羽をつけて得々としているような動機では困るでしょう。同じように、バロー・エスキモーが、「賛美歌」のことを「祈りの歌」と言っているのは、聖歌の真の意味をまさに手にとるように表現しているといえます。
なるほどキリスト者は一般に誰でも、教会生活における聖書の重要性を認めてはいます。ところが、聖書を現地語に訳すとなると、何だか時間の浪費のような気持ちを持つようです。「まあ、お話をしてやんなさい、それでいいんですよ」と言うのをよく耳にします。ところがこういう人たちは、話し言葉だけで繰り返された話には、気の付かない、意味の取り違えがあることなど、夢にも考えてはいません。
コンゴにいるある宣教師が、聖書なしに信仰に入った信者の言うことを調べてみて、おどろくべき事実を発見しました。ある人によれば、ヤイロの娘(マルコ5:22)はザアカイであり、また別の人によると、屋根から下されたあわれな男(マルコ2:5)は、フランペジア(いちご腫)にかかっていたというのです。かわいそうなバルティマイ(マルコ10:46)は、片目であり、マラリヤと中風にかかっていたと言われているのです。
愚かな娘たち(マタイ25:2)は、油壺を忘れたのではなく、心を忘れたのであり、神殿で幼子イエスを見て喜んだ者の1人(ルカ2:25)は、人もあろうにダビデ王だというのです。これほどの混同は、信じられないかもしれませんが、これは日曜学校で数週間学んだことのほか、キリスト教の教養を持たない英語国民のやる霊的真理の解説と五十歩百歩です。その日曜学校の先生というのがまた聖書物語を聞いただけで、聖書そのものは自分で読んだり研究したことはないということさえあるのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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