以前の原稿から何カ月も空いてしまいました。
最初に父のことを書こうと思ったときには、父は脳内出血で倒れたとはいえまだ反応がある状態でした。それが脳梗塞を併発し、思ったより麻痺の進行が早く、しかも意識はあるので、目がいかにも無念そうです。
あの、84歳にして四国中の野山をオートバイや自動車で駆け回るほどアクティブだった父、ひとときもじっとしていられなかった、しかも、おいしいものに目がなかった父が、自分では手足も動かせず、栄養は鼻から胃に差し込まれたチューブで送り込まれ、命をつないでいます。目で何かを訴えるのですが、私には何を言っているのか分かりません。
つまり、元気な頃の父が最も恐れていて、最も軽蔑していた状態で日々が過ぎていっているのです。痛ましく、あまりの落差に目まいがするほどです。
私が父のためにできることはもうほとんどありません。祈ること、せめて、できる限り想像力を働かせて父に明るく話し掛けることだけ。そして、おむつを補充し、洗濯物を持ち帰っては洗って乾かし、また病院へ届けることだけになってしまいました。
父は健康が自慢でした。生涯趣味を追いかけ、極めることに誇りを持っていました。私たち娘の世話も振り切り、老後を誰よりも充実して自立して過ごしていることが自慢だったのです。
その父が丸太のようにゴロンと転がり目で無念を訴えるのに接するとき、私にある思いがこみ上げてきます。
人は人生の最後には全ての誇りをはぎ取られ、神だけの御前に立たせられ、無力な自分に向き合わなければならないことを。
この原稿を書き始めたとき、私は主が父からどのようにして優しく車やオートバイの運転を取り上げてくださったかをユーモラスに証しするつもりだったのですが、父のことが今は日々痛ましく、心の整理もついていないので、もう少し後になって許されるなら書かせていただこうと思います。
父はたくさん計画を持っていました。明日は何をしようか、今年もそれぞれの季節には四国の花の盛りや紅葉をカメラに収めねばと、一年中もくろんで飛び回って大忙しでした。また、孫やひ孫のために良いことを願い実行してくれていました。
けれどもそれは突然断ち切られ、中断されたまま、カメラや三脚が部屋に残されています。
いつか私にもそういう日がやって来る、それは明日かもしれないし、と、恐れと厳粛な思いにとらわれずにはいられません。(つづく)
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