「…男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。…屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。…イエスは…中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た』と言った」(ルカの福音書5章17~26節)
恵みの秋を迎えています。厚労省が最近、喫煙は重大な病気を引き起こす要因となると、医学的因果関係を発表しました。豊かに蒔くものは豊かに刈り取るとあるように、私たちの人生にも原因と結果の法則があります。信仰の種を蒔き、祝福される原因を作り出しましょう。今日の箇所は中風の癒やしのところです。ここにはあらためて、イエスの癒やし主(ぬし)としての力、恵みが現されています。
1. イエスは権威を明確に示された
イエスのうわさを聞いて、男たちが中風の男を寝床のまま運んできます。しかし、黒山の人だかり…。何とかしてイエスの前に置こうとしますが、入れません。とうとう屋根の瓦をはがし、イエスの前につり降ろしたのです。
床に寝かされた男は、全身が麻痺し、その姿は生ける屍でした。イエスは、友人を救いたいという一心で常識破りの行動に及んだ彼らの愛と信仰に感動します。そして、「友よ。あなたの罪は赦(ゆる)された」と宣言します。
それを聞いた律法学者たちは、罪を赦す権威を持っておられるのは神だけなのに、神を冒涜(ぼうとく)していると心の中で思いました。それを見抜いたイエスは、「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいか、と質問を投げ掛けます。
人間的な判断では、「罪は赦された」は言葉を発するだけで済みますが、「起きて歩け」は結果を出さなければいけませんから、難しいことです。しかし、権威をお持ちのイエスにとっては、「起きて歩け」と言う方が易しいのです。権威があるからです。
権威とは、言葉で語られたことが実現することです。神を冒涜していると、批判的な心で見ていたパリサイ人たちを納得させるために、イエスは「あなたに命じる。起きて床を取り上げて、家に帰れ」と命じます。
イエスは言葉を発するだけで中風を癒やし、それによって、あなたの罪は赦されたという言葉も真実であることを証明したのです。イエスは罪を赦し、病を癒やす権威があるお方です。
2. 主と向き合う人々に信仰が働いていた
信仰の世界は、神の一人芝居ではありません。ここには、イエスに癒やされたいと願う中風の男、彼を救いたいという友人たちがいます。彼らは無学だったかもしれませんが、イエスに期待し、求める純粋な信仰、行動が伴っていました。主は信仰を見られます。
イエスの権威を用いた働きと、何としても神の恵みを頂きたいという信仰が結び合ったとき、奇跡が起こります。パリサイ人たちは、理屈は言いますが、行動が伴いませんから、何も起こりませんでした。私たちも、イエスを慕い求め、信仰を、行動をもって働かせましょう。
腰の圧迫骨折で8年間も痛みに苦しめられた姉妹が、癒やしの集会で、今日私は癒やされる、というはっきりとした信仰がハッと湧き上がったとき、イエス・キリストの御名によって、病の霊よ去れ!と祈られた瞬間、痛みが体から消えました。病院でレントゲンを撮ると、ぼろぼろだった背骨が、しっかりとした骨に再生していたのです。これが神の癒やしです。
イエスの御言葉には権威があるという事実。罪の赦しも病の癒やしも、イエスの語られる御言葉通り実現するのです。私たちも信仰を持って、イエスの前に出ましょう。そして、神の恵みを体験していこうではありませんか。