ある人が、目を閉じて聖書をパッと開き、開いたページの聖句を神からのお告げとして受け取ろうとした。開いたページに指を置いた。目を開くと、指の下にあった聖句は「ユダは出て行って首をつって死んだ」であった。
「神様。とんでもないことです。どうか私に必要なお言葉を・・・」。こう言って再び目をつむり、聖書を開き指で差し、目を開いて読み始めた。
「あなたも行って同じようにしなさい」
「神様どうか冗談はよしてください。私を助けてください。どうか何をしたら良いのかお教えください」。心の中で呻きながら、もう一度目をつむり、聖書を開き、指で指し、読み始めた。
「・・・あなたのしようとしていることを明日に延ばしてはならない」であった。(完)
これは笑い話のようですが、こういう聖書の読み方をしてしまう人がいたとしたら、それは正しくありません。文脈を無視して聖書を読んだとしたら、全く別の意味に取ってしまうこともあり得ます。
聖書を正しく理解するためには、聖書に聞く心を持ちながら、聖書を文脈的に読んで理解しなければいけません。
最初の「ユダは出て行って首をつって死んだ」という聖句は、そのもの事実を語っているだけです。
次の「あなたも行って同じようにしなさい」という言葉は、ルカ10章の有名な「善きサマリア人」の例え話の結論ですし、「・・・あなたのしようとしていることを明日に延ばしてはならない」という言葉も、ユダが首をつった記事と何の関わりもありません。
聖書は、この世界の始まりとともに「神」「罪」「救い」について書かれています。神がいかに人間を愛しておられるか。罪を犯した人間を何とかして救いたいと考えておられるかを聖書は語ります。しかし、その聖書を見て、太宰治のように自殺してしまう人もいます。
人を救う前に、聖書は、人の罪の姿をありのまま指摘します。それを認めたくないという思いは、聖書を知らないから起こってくる反応です。この世の中では、自分の罪を認めたら、裁かれたり、弱みを握られたりして、自分の立場を失ってしまう可能性があります。しかし、神は、本当のあなたを愛しておられ、救いたいのです。
聖書が罪を指摘するのは、「自分は正しい!」「人に迷惑をかける生き方をしていない!」「私を罪人呼ばわりするなんて!?」と考える人に、「あなたは罪人であり、救いが必要な人ですよ」と知らせないと、イエス・キリストが必要であることが分からないので、神を求めることができないからです。
教会は、聖書を単なる「知的理解」するにとどまらず、「体験的理解」「霊的理解」を人に与えてくれる場所です。神と出会い、神を全身全霊で理解できるようになります。
日曜日は教会に行ってみませんか? 久しぶりの人、初めての人、毎週教会に通っている人。みんなこぞって教会に行きましょう。
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります」(ヨハネ1:39)