世の中には、いろいろな法則があります。その中で、科学的かと聞かれたら微妙ですが、「嫌いな人はどこに行ってもいる法則」があると思います。仮に「菅野直基の法則」としました。
誰にでも、少なくとも2~3人は、「この人さえいなければいいのに!」と思うような、苦手なタイプがいるものです。
ある人は考えました。「そうだ。嫌な人を排除したらいいんだ!」
グループの中から、嫌な人を追い出しました。「さあ、これからは天国のように楽しくなるはず!」と期待しました。
しかしどうでしょう。今まで「いい!」と思っていた人が、いつの間にか嫌なタイプの人に変身してしまいました。
また嫌な人を追い出しました。いつの間にか「いい!」と思っていた人が、嫌なタイプの人に変身していました。
「らっきょうの皮むき」のように、追い出しても追い出しても嫌な人がいなくなるどころか、「いい!」と思っていた人が嫌な人に変身し、気が付いたら友達がいなくなってしまって、ついに追い出す必要もなくなってしまったそうです。
私は1971年生まれなので、実際はあまりよく知りませんが、1971年から1972年にかけて活動し、「あさま山荘事件」や「山岳ベース事件」などを起こした「連合赤軍」のことを思い出しました。
連合赤軍は、警察の捜査網から逃れるため、山の中に「山岳ベース」と呼ばれる山小屋を建設して潜伏しているとき、「総括」と称して、連合赤軍内部での「粛清」が行われました。粛清は集団リンチという形で、12人もの仲間を殺害しました。
連合赤軍の粛清は、「こいつさえいなくなれば、本当の純粋な革命団体になる!」と思って、集団リンチで殺していったのでしょう。しかし、そうすると、今まで「いい仲間!」だと思っていた人が、「ダメな奴!」に見えて来て、結局、12人もの仲間を殺すに至ってしまったのだと推測します。
私は経験上、どんな組織、どんな集団、どんな共同体にも「嫌いな人がどこに行ってもいる法則」があると思います。
その時に「嫌いな人を排除する」のではなく、「嫌いと思う愛の無い心を排除する」ことが懸命だと思います。
もう少し掘り下げると、人を見て「こいつ嫌な奴!」と思うときは、自分の中にある、自分の嫌いな部分を相手の中に見ているものです。
私は牧師になってから、人間の心の深い部分に触れる機会が何度もありました。不思議に思うことは、誰かを非難したり、批判したりする人は、その相手と同じものを、知ってか知らずか、持っているということです。
「あいつはうるさい!おしゃべりだ!口が軽すぎる!黙れ!」と言っていた人が、違う場面になったときに、とてもおしゃべりで、ほかの人にしゃべるすきを与えないほど1人でしゃべっているのです。
「すいかの反対は?」「かいす(返す)」ですが、人に言う前に、まず自分に向かって言った方がいいと思います。
相手の人の中に嫌な部分を見つけたとしたら、「自分の中にも同じもの、同じ性質があるかもしれない!?」と考えて、吟味してから相手に伝えても遅くありません。
つまり、自分の中に、嫌いな相手と同じもの、同じ性質を見つけ出し、その自分を否定しないで認め、受け入れたら、同じものを持っている相手に寛容になり、受け入れることができ、場合によっては、自分と似ている相手を好きになることさえあり得ます。
「自分にも同じもの、同じ性質があるのではないか!?」と吟味し、自分と向き合ってから注意したら、その言葉は謙遜であり、優しくなり、上から目線ではないので、相手の心に素直に入っていきます。
しかし、自分には落ち度がなく「あなたは間違っている!」と上から目線での注意は、たいてい反発が帰ってきます。
聖書には、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:1~5)と書かれています。
「嫌いな人がどこに行ってもいる法則」はあります。「嫌いな人を排除する」のではなく、「嫌いな人を排除しようとする自分の心の問題」を解決しましょう。
自分の中にある、相手の嫌いな部分と同じものや性質を認め、罪であるならば神に悔い改め、きよめていただき、その後に相手を見たら、嫌いだったはずが「嫌い!」と感じなくなり、大好きな人に変わってしまっているかもしれません。
幸せな1日でありますように。
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