神がほめたたえられたいというのは、虚栄にとらわれた人間のようだ。
人は仮に、その現実の姿、あるいは言動やその結果が他の人よりも秀で、優れ、立派であるにしても、それはあくまで人と人との比較によるもので相対的なものです。人には限界があり、所詮(しょせん)はドングリの背比べにすぎません。従って、その栄誉を求めるのはむなしい、虚栄であるといえます。
そもそも、その優秀さ、立派さなどの原因である容姿、形、体力、能力、性格、資質、出自などは大部分が生来のもので、神から頂いた(あるいは預かった)ものといえます。ですから、それを誇り、それに称賛を求めるのはよくありません。
一方、神の真実の御姿(ありさま)、その知恵と力、その聖(きよ)さ、その義、その愛の高さ・深さ・広さ・大きさ、その御業の素晴らしさは、限りがなく、比較を絶するものです。人はその神に(一部にでも)接するとき、(人とは違うありさまに)圧倒され、驚き、称賛し、賛美するほかないのです。人間はそれが当然の在り方なのです。
しかし、人は、欲望を満たすことばかり考え、一般社会の見方にとらわれ、それらに気付かない。神を見失い、見損なってしまって、ほめたたえることに思い至らない。それは著しく不当なことであるといえます。神は、人が他人とばかり比較せず、神の隔絶性、その偉大さ、その素晴らしさなどに目を向け、当然の敬意を払うことを評価されます。そうすることが、人の正しい生き方の出発点になるのです。
人が神をほめたたえることを、ご自分のために喜ぶというよりも、むしろ、人に正しい生き方の前提ができたことを、神は喜ばれるのです。
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