神を信じなくても生きていけるではないか。
キリストの神を信じなくても、“死ぬまでは”生きていけます。苦難の日が来ても、「また良い日もあるだろう」とひたすら我慢していけば、何とか生き続けられるでしょう。生きる目的、存在意味が分からなくなっても、それ故にむなしさや無常を感じても、生きがいがなくなっても、趣味とか気晴らし・紛らしとかで何とか生きていけるでしょう。寂しくなってかまってくれる人が誰もいなくなっても、テレビを見たり、碁を打って暮らせば、何とかしのげるでしょう。
しかし、これらは死に行き着くための生であって、本来の生を全うしていません。「生きている」とはいっても“生ける屍”といってもいいのかもしれません。その評価はしばらくおくとして、「生」は肉体の生命だけではないことは確かでしょう。肉体の死の後の状態、すなわち、“死後の生”まで含めて考えなければなりません。神を信じない人の生は“死後の生”を顧慮(こりょ)していないことが一番の問題です。
人は、肉体が死んだときどうなるのか。「無になる」とか、「元の物質に還って、不存在になる」と考える人もいます。でも、それが正しいのかどうかは断定できません。
AD4世紀に中国で作られた仏教経典「十王経(じゅうおうぎょう)」では、人は死後、冥府(めいふ)で閻魔(えんま)大王の下で裁かれ、地獄に落とされる者もある、とします。仏教に儒教が習合して作られたAD5世紀の「盂蘭盆経(うらぼんぎょう)」では、地獄に堕ちて餓鬼道に苦しんでいる死霊を慰める行事“うらぼん”について物語付きで詳しく述べられています。
今、これらを論拠にして死後生を論じるのではありません。ただ、人間の生来の心情には普遍的に、死後生を、しかも、裁きを伴ったものとして感じるところがある、ということです。
何よりも、聖書は、「人は一度死ぬことと死んだ後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と明確に教えています。神の裁きによって義人は永遠の命によみがえり、悪人、罪人はゲヘナに落とされる、と何度も強調しています。もしこれが事実なら、由々しき事態です。安閑(あんかん)としてはおられません。
裁かれて永遠の命に入れられる特権を持っている人(すなわち、キリストを信じている人)は安心して結構ですが、そうでない人(すなわちゲヘナに落とされる可能性のある人)は対策を取っておいた方がいいのではないでしょうか。〔その対策とはもちろん、キリストの神を信じておくことです。〕
パスカルは言います。「これほど重大なことはないが、また、これほど人がなおざりにしていることはない」「なぜなら、この世の生の時間は一瞬にすぎないということ、死の状態は、それがいかなる状況のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がないからである」「キリスト教を真だと認めることによって誤るよりも、誤ってしかる後にキリスト教を真だと認める方が、何万倍も恐ろしいことである」
幼児は、怖いものの前では目をつぶって見ないようにします。しかし、見ないからといって、怖いものがなくなるわけではありません。読者の皆さんも、恐ろしいもの、永劫(えいごう)の苦しみの前で目をつぶっていても、それがなくなるわけではありません。ですから、しっかりと見て、その対策を講じることが大切なのです。
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