運転席に座っていないのに、運転手に「ああせよ、こうせよ」とお節介を焼く人々がいます。誰もが認めていることでしょうが、このような悪評判を作っているのはもっぱら女性だと言われても、無理はないと思います。
というのも、運転するのは大抵は男性で、女性はハンドルを握る席には着きません。ですから、女性は運転者に何か言いたい気持ちに駆り立てられるのです。
しかし、私は今、個人的な体験から助手席運転手について思いを巡らしています。夫の運転に何も言う必要がないのに、私は心の中では「もっとゆっくり。信号ですよ」などと言っていたので、申し訳ない気持ちがしています。後部座席の3人の子どもたちもパパの運転について言いたくて仕方がありません。
教会の集会が終わり、夫の運転で夜遅く家路に着きました。私は集会で疲れきっていて、目も焦点が定まらないくらいぼんやりしていました。もう少しで家に着くというときに、気が付いたことがあります。私もずっと夫と同じように運転しているつもりになっていて、さらに疲れを増長させていたのです。
止まれのサインがあれば、私も左右を確認しました。信号機には殊のほか、注意して見ました。車がカーブしたり、止まるときは、私の足にも自然にグッと力が入り、ブレーキを踏む動作を運転手と一緒にしていました。
助手席の私が運転しているつもりになっていたのですから、何と愚かだったでしょうか。それに気付いてから後は、目を閉じ、座席にもたれ、ゆったりした気持ちになったので、家までの残りの旅路を大いに楽しめました。
私は運転席の夫に口やかましく言いませんでしたが、助手席で夫の運転をあれこれ気遣っていたのです。でも、いつものことながら、心配は何の役にも立ちませんでしたし、無駄になるだけでした。
このことは人生でちょっとした煩いや心配事をたくさん抱えている私たちの場合と、とてもよく似ていると思いませんか。心配は結局、肉体的にも、霊的にも疲れを背負うことになります。
私たちに代わって主がハンドルを握っていてくださいます。ブレーキをかけるのも神様です。カーブ、止まれのサインを気を付けて見ていてくださるのも神様です。この神様を知って、いつも私たちの肩の力を抜くようにしたいものです。
助手席で運転していた骨折り損を、全知、全能、いつも共にいてくださる主の御手に委ねることができるのですから、何とありがたいことでしょうか。
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【書籍紹介】
ミュリエル・ハンソン著『蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ』
読んでみて!
一人でも多くの方に読んでいただきたいエッセイです。聖書を読んだ経験が有る、無しにかかわらず、著者ファミリーの普段着の生活から「私もそのような思い出がある」と、読者が親しみを抱くエッセイです。どなたが読んでも勉強になります。きっと人生の成長を経験するでしょう。視野の広がりは確実です。是非、読んでみてください。
一つは、神を信じている者が確信を持って生きる姿をやさしく、ごく当たり前のこととして示しているからです。著者は、日本宣教のため若き日に、情熱を燃やしながら来日しました。思わぬ事故のためにアメリカへ帰らなければなりませんでしたが、生涯を通して神への信頼は揺るぎませんでした。
もう一つは、日常の中に働いている聖霊のお導きの素晴らしさを悟ることができるからです。私たちの日常生活が神様のご意志のうちに在ると知ることは、安心と平安を与えるものです。
さらに、著者のキリスト者生活のエピソードを通じて、心が温まるものを感じます。私たちの信仰生活に慰めと励ましが与えられます。信仰が引き上げられて、成長を目指していく姿勢に変えられていく自分を発見するでしょう。
長く深く味わうために、急がずに、一日一章ずつでもゆっくりと読んでみてはいかがでしょうか。お薦めいたします。
ハンソン夫妻の長い友 神学博士 堀内顕
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