具体的に神に栄光を帰すること
私は常々うのみにするのが嫌で、何でも根本的なところから納得いくように考える癖がついている。そのため、聖書に関することや習慣など、極めて初歩的と思われることでも、長い間疑問として残っている場合がある。そして、もちろんのことであるが、その初歩的な疑問が解けたときは、宝物を掘り当てたようにうれしい。
神に栄光を帰するということは、今まで当然と思って考えてもいなかった。賛美することはもちろん、聖歌や賛美歌を用いて神をたたえることであるので、よく分かった。
祈りは、神と私たちとの交わりであるので、祈りの中で神をたたえることもよく理解できた。
礼典は、神の御言葉により、これを行うことを保証されているので、神に従うということになり、自主的に従うということは、神を敬っているということにもなるので、必要性を理解できる。伝道も同様に理解できる。
説教は、牧師が神の御言葉を取り次いで私たちに説き明かしてくれるのであるから、当然のことながら、神の栄光をたたえる内容であり、よく分かる。
人が作り、神が造った教会を通じて、多くの人と交わることは、教会設立から人の交わりまで、神が保証し、勧めてくれることであるから、これもよく分かる。
最近私は、これら一般的に当然と思われている、神に栄光を帰する道以外に、自分自身をも用いなければならぬことを知った。それは多くの人が、私が今回復して元気そうなのを見て、励まされたとか、勇気づけられたとかおっしゃるのを聞いたからだ。
私が教会や集会に元気に出席することは、神様が私たちには奇跡的とも思える方法により私を癒やされたことを示すことで、神様の栄光をたたえることであり、私にとってもこれほど具体的で分かりやすい神の栄光の提示はない。
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(創世記41:16)
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