歩み方
私は今会社を閉じ、病気治療中であり、何ら仕事らしい仕事はしていない。毎日日記をつけること、お祈りをすること、賛美をすることだけである。その他の日常生活では、妻の手伝いとして掃除、洗濯、料理、皿洗い、買い物、私の健康や趣味として、風呂、英会話くらいである。
外出していくことで主なことは、日曜日教会へ行くことと、週1回市大病院へ行くこと、数回NOVAの英会話に行くことくらいであろうか。ほとんどが感情的でもなければ、狂喜することでもなく、淡々とゆっくりした歩みである。
こういう淡々とした、一見平凡な歩みでも、注意していないといつの間にか自己中心の、自分が前面にいる考え方に陥ってしまう。
お祈りをしているときですら、自分の感情を入れ込んだお祈り、自分が前面に出たお祈りになって、内なる神様の声を聞こうとしない自分に気付くことがある。当然、本当の喜びがなく、また平安もない。何かしら空しい。
「もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み」(ヨブ記31:7)
人の心は、その人の目に従って歩む。私たちの心は、注意していないと欲望に従って歩んでしまう。
私たちは、内なる神様のあとを歩みたい。内なる神様の歩みは確実であるから、私たちはゆとりを持って歩むことができる。何か予想せぬことが起こったときでも、常に平安があり、また助けもある。神様という絶対者に従っているのだから、当然といえば当然である。
「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(Ⅱコリント5:7)
神様に従っているときに得られる平安は、弱いようでも強く、喜びは、小さいようでも大きい。
◇