続くシンポジウムでは、同書に執筆した木原教授の研究会に所属する3人の女性が発表した。引土絵来(ひきつち・えみ)さん(国立精神・神経医療研究センター外来研究員)は、精神科のソーシャルワーカーとしてアルコール依存者の支援に関わってきたが、その原点は父を自殺で亡くしたことにあったと述べ、自死した父と自身について語った。
引土さんの発表要旨は以下の通り。
亡くなった父の遺書
私が19歳の時、父は、お酒や借金、病気を患い自らの手で命を絶ちました。男手一つで育ててくれた父親を救うことができなかったという苦しみは大きくのしかかり、援助職として父と同じような人を助けたら、自分が楽になるかもしれないと思い、働いてきました。
しかし、自分の問題を全て棚上げにし、感情にふたをしていました。父と同じような人と向き合うことは、自分を疲弊させるだけでした。その後、大学院に進学し、自分に向き合う機会を与えられ、自分のことを少しずつ語ることができるようになっていきました。
今回本を出版するに当たって、初めて言語化することができたものがあります。それは父の遺書でした。遺書は父親が生きてきた証しであり、父とのつながりであり、同時に心の中に重く横たわる鉛のようなものでした。
父の死後数年は、遺書を引っ張り出して泣き続けるということを繰り返していました。見れば苦しくなるのが分かっていても、やめられなかった。それが、父が生きてきた証しを感じる唯一のすべだったと感じていたのだと思います。
しかし、自分のことを語るようになって、父の遺書を見ることはなくなっていきました。今回あらためて父の遺書を見直したとき、それが全て頭の中にあることに気付きました。
その遺書は、亡くなる前日の競馬新聞に赤鉛筆でばらばらに殴り書きにされたものでした。
今までずっと遺書の中に父とのつながりと生きてきた証しを求めていましたが、今自分の中に父があるんだなぁと実感することができました。今回はそのような父と私自身の物語を共有させていただければと思います。
父の物語
私の幼少期に父は離婚し、それが父の孤独の始まりでした。小学校低学年までは、仕事と家庭を両立する「スーパーお父さん」という作文が学校で入賞したこともあり、父のことを大好きだったのだと想像しています。しかし、思春期になり、私たちが家庭に寄り付かなくなると、父は自宅にひきこもり、休日はお酒とギャンブルで過ごすようになりました。
お酒は父の全てを奪ってしまいました。誇りだった仕事も、家族との健全なつながりも、お金も、最後には父の命も奪いました。しかし、遺書には「酒おいしかった」と書かれていました。それは、私には衝撃的なことでした。
その文字に込められていたのは、病気の一部だけでなく、父にとっては「救い」だったのではないかと思います。
父は多重債務を抱えていました。現在と違い、20年前、多重債務に関する対応策は私たち家族には全くありませんでした。二度多重債務を背負い、家族に打ち明けることなく、生命保険で命をかけて清算することを選んだのだと思います。
本の中では「道を尋ねられない人」と表現しました。中年男性でお酒の問題で自殺をした人を調査すると「借金を抱えていながらも誰にも相談することができない」という共通点がありました。
私たち家族は近所づきあいも親戚づきあいも薄く、友人もほとんどおらず、誰かに相談するという選択肢すら思い浮かびませんでした。まさに「道を尋ねられない人」でした。唯一相談できる大人は離婚した母でしたが、父はいつも「お母さんには言わないでくれ」と言っていました。
それが父の小さなプライドだったと思います。それを受け入れて、私たちは誰にも相談することなく、父親の問題を抱え続けることになりました。
最後に父は連続飲酒状態になり、出掛けるのはお酒を買いに行くときだけ。起きてはお酒を飲み、食事もとらずにひたすらお酒を飲む状態になりました。
アルコールと自殺とうつは、死のトライアングルとされます。飲酒は死の恐怖を緩和させ、うつ状態で正常な判断ができず、自ら命を絶ってしまう。父もその状態にあったのではないかと感じています。
引土さん自身の物語
父の離婚は自分にとっても孤独の始まりでした。30年前、田舎の父子家庭は好奇の対象でしかありませんでした。だから常に「どうやっていい子でいたら普通の家庭で生きていけるか」を命題に生きてきました。しかし、両親の離婚で誰かを信じることを失ってしまいました。
父との生活はつらくて苦しくて情けなくて、でもその感情を感じてしまうと生きていくことができなくなるので、自分の感情にふたをして毎日を生き延びることが当たり前になりました。
父が連続飲酒になり「もう働けん」と漏らしたとき、「分かった、私が働く」と自分が働くことを約束し、大学が終わり夜中までパチンコ屋でアルバイトをし、帰宅すると家中酒びんと失禁で汚れた家を泣きながら片付けました。
こんな地獄がいつまで続くのだろうと思いながら、誰かに相談する選択肢は全くなく、息をするように我慢するのが当たり前の生活になりました。
父の最後の日、友人に会いに出掛けるとき、珍しく玄関まで見送りにきました。「もしわしに何かあったら、この生命保険の証書を使え」と。明らかに父のSOSでした。
でも私は、「ああまたいつものことだ」と思いました。毎晩お酒を飲み、「助けてくれ」「話を聞いてくれ」「死にたい」「この生命保険を使ってくれ」と口癖のように言っていたので、いつものこと、どうせ死なないのでしょと思って、SOSを無視して出掛けました。そのまま父は、自宅で亡くなることになってしまいました。
それまで私は、何度父がSOSを出しても、自分自身が生きていくのに精一杯で受け止めることができませんでした。しかし、父に死に装束を着せているとき、体が冷たく硬くてとても軽かった。その時初めて、父が借金と病気に苦しめられていたことを思い知らされました。
「弱さ」を語れる社会へ
なぜ父は、自ら死を選ばなければならなかったのでしょうか? 離婚・アルコール依存・多重債務・疾病・後遺症が自殺のリスクを高めることは知られています。さらに、私たち家族も孤立していました。それが自殺に結び付くことは、多くの研究で知られています。
私はこれまで研究や実践の中で、そういう時、治療、債務整理、リハビリ、相談機関があると、たくさんのことを学びました。それでもなお、私は父が生き延びることを想像できない。私たち家族が、想像することを望んでいませんでした。
もしこれだけの支援があっても、父が支援に手を伸ばしたかを今でも想像できません。その原因が「弱さを受け入れる」ことにあるのではないかと今は考えています。
私たち家族は「普通の家庭」に強いこだわりがありました。だから誰かに何かを相談し、弱さをさらけ出すことが一切できませんでした。
しかし、一度だけ父が、信心深かった母親に「お経の本を買ってきてくれ」と頼んだことがありました。母は本を買って渡しましたが、父が一度も見た形跡はありませんでした。本という「もの」ではなく、誰かに救いを求め、誰かにいてほしかったんだなぁと思います。父の最初で最後に見せた「弱さ」は、誰にも救われることはなく、父は死を選びました。
私自身も、家族の弱さを抱えることができませんでした。借金、お酒、退職、リハビリ、入院、いつも問題がないように振る舞うしかありませんでした。しかし、誰かに何かを打ち明けることができたら、もしかしたら違う選択肢があったかもしれないと今は感じています。
父が亡くなってから、自分の感情をコントロールできなくなって自分と向き合わざるを得なくなり、少しずつ自分の経験を語るようになりました。自分自身を語るようになり、初めて気付いたことがあります。今まで誰にも頼ることができないと思ったこの世にも、愛があふれている、愛に支えられていると気付かされました。
自分が経験を語ることで、「実は今まで自分も話すことができなかったけど・・・」と新しい語りが始まることもあります。自分自身が弱さを語ることが、次の人への強さや共感につながるのではないか、と今は感じています。
「弱さ」を受け入れられる社会はどうすればできるのでしょうか。自殺予防の手段、相談・リハビリ・治療は、弱さをさらけ出せる社会にしか成立しないのではないでしょうか。そのためには私たち一人一人が弱さを語ることから始まるのではないか、と感じています。
最後に
父親が亡くなって数年後、自分の感情や経験からもし子どもを持ったとき、悪い影響を与えるのではないかと漠然とした不安を抱えていました。しかし、自分のことを語るようになって不安が消えていき、今は2人の子どもをもうけることができました。
今、私の子どもたちは、私が強い憧れと劣等感を抱き続けていたいわゆる「普通の家庭」に生きています。子どもたちは私の経験を理解できない。「『死ぬ』『殺す』という言葉を簡単に使ってほしくないよ」と言っても、なかなか分かってもらえない。「知らないことは分からないのだな」と思います。
だから私たちは、弱さを語り続けることで、知らないということをなくしていくことが必要なのではないかと思います。
しかし「弱さを語る」ことは、語ることで「強さ」を持ってしまうこともある。今まさに語ることができない人へのまなざしと配慮も、考え続けなければならないのだと思います。
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