京都市で1日、自死問題に取り組む宗教者による啓発イベント「LIFE WALK いのちを想う宗教者の行進」が行われ、僧侶やキリスト教の牧師など宗教者約50人がメッセージを書いたプラカードを掲げ、西本願寺から京都駅までの約3キロを行進した。
京都府は、自殺対策のために2016年から3月1日を「京都いのちの日」として制定している。自死・自殺の問題に関心を持つ宗教者で構成される「京都いのちの日」宗教者プロジェクト実行委員会が主催し、浄土真宗本願寺派総合研究所が取り組みに賛同し共催する形となった。
自殺問題における宗教者の役割とは?
行進に先立ち、集まった同寺阿弥陀堂でプロジェクト代表の霍野廣由(つるの・こうゆう)氏(同派)は、「私たち宗教者は、自死・自殺にまつわる苦悩を抱える方に会う機会が多くあると思います。私たちの言葉やふるまいによって苦悩を和らげることも、逆に絶望のふちに追いやることもあると思います。宗教者は今まで以上に自死・自殺に関心を持ち、苦悩を抱える方と共に悲しみ、泣き、笑う、そんな思いを育むきっかけとしていただけたらと思います」と話した。
共催した浄土真宗本願寺派総合研究所所長の丘山願海氏は、「神道、キリスト教、仏教の宗派によっても表現は異なるでしょうが、私たちは一人ではない、いつも共にあるのだということを、より多くの人に伝えていくのが宗教者として最大の、唯一の役割だと思います」とあいさつした。
キリスト教会からは日本基督教団世光教会(京都市)の榎本栄次牧師が参加した。昨年末にかけて榎本氏の周りでも3人が自死し、牧師として大きな重みを感じたと述べた。
榎本氏は、「宗教者として自死・自殺をどう考えるのか? 経典であれ、哲学書であれ、聖書であれ、それをひもとき、こう書いてあるから自殺はだめだと言っても、どれだけの意味があるのでしょうか? 絶望にぶら下がっていてもう耐えられないから手を離してしまった方を悪いとかさばく資格が、われわれにあるのだろうかと思います」と語った。
その上で、「この問題は日本とわれわれ宗教者の抱えている大きな問いです。その苦しみを共有し、教派や宗派を超えて宗教者が逃げ場所と隠れ家、力を緩めても大丈夫という環境をつくっていくことが大事だと思います。宗教者は、自分たちの真理に立ちながらも、教派を超えて命のために祈りを合わせ、行動を共にし、隠れ家・逃げ場を保証し合っていくことが必要だと思います」と述べた。
自死に向き合う関西僧侶の会代表の福井智行氏(真宗興正派称名寺住職)は、自死で亡くなった人の追悼法要を行っているとよく「自殺したら地獄に落ちるって言われたんだけど本当ですか。うちの子どもは今地獄で苦しんでいるんでしょうか?」と尋ねられると語った。
「その時はこうお答えします。いいえそんなことはありません。仏様は亡くなり方で人を区別なさったりいたしません。病気、事故、自死で亡くなられた方も、皆さんそれぞれの命を精いっぱい送られた人生です」
そう答えると、遺族の表情は一様に和らぐという。
「私たち宗教者は人生の最期の迎え方によって、その方の人生を差別してはこなかったでしょうか? その結果、たくさんのご遺族がより大きな悲しみを背負われてしまったことに、とても申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「私たち宗教者がしっかりとそれを認識して、仏様は亡くなり方で人を差別したりしませんという当たり前のことを、もう一度しっかりと伝えていくことで、ご遺族の方が人生を歩んでいくほんの少しの支えになっていくのだと思います」と語った。
臨床宗教師として東北で被災者支援のため「Café deMonk(カフェ・デ・モンク)」という傾聴活動を続けてきた金田諦應氏(曹洞宗通大寺住職)は、こう語った。
「お葬儀というには、生きている人と亡くなった方をつなげて、新しい場をつくっていくものだと思っています。でも自殺では、それがつながっていかない。みんなそれぞれ自分を責めます。沈黙したままです。それは本当に苦しいものです」
金田氏の寺がある宮城県栗原市が、自殺率で全国1位だったことにショックを受け、24時間自殺念慮者の相談をしようと覚悟を決め、活動を続けてきた。しかし、この前日にも「妹が灯油をかぶって焼身自殺しました」という電話を受けたという。
「私はその叫びを聞き、背負いながら今日は歩きたいと思います。昨日シスター高木慶子さん(死生学の研究者・聖トマス大学名誉教授)からクリスチャンの『あしあと』というとてもいい詩を教えてもらいました。声なき声、苦悩に苦しむ人の声、沈黙を背負いながら、今日は黙々と歩きたい」と述べた。
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「あしあと」 マーガレット・F・バワーズ
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとが一つだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
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家族を自殺で失った女性からのメッセージ
また、夫を自殺で失い、自死遺族サポートの活動をしている女性からのメッセージも朗読された。
この女性は、自分のせいで夫は死んだと自らを責め、元夫の両親からも責められ、葬儀にも参加させてもらえず、言葉にできない重い苦しみを一人で背負ってアルコールにおぼれる中、ある宗教者からは「逃げても何の意味もない。しっかりしなさい」と怒られ、誰にも分かってもらえないと、一層深い孤独に陥れられたという。
「いまだに自死がタブー視される状況は変わっていません。社会の自死者に対する反応は『心の弱い者の身勝手な死』『忌まわしい死』『恥ずかしい死』など、偏見や差別が根強いです。さまざまな取り組みで自死者の数は減少しつつありますが、これも継続がなければ今後どうなるか分からないと懸念しています」
「また自死遺族は、後追いしてしまう人、自死未遂が多いということも、紛れもない事実です。大切な人を亡くした悲嘆やそれを口外できない苦しみだけでなく、故人が遺した多額の負債といった深刻な問題を抱える遺族も少なくありません」
「自死はさまざまな社会的背景抜きには起こり得ず、自死対策は何か一つをやればいいというものではありません。教育や医療、福祉、産業などさまざまな分野が有機的に連携していくことが必要不可欠です。その中で、常に命や魂の問題と向き合う宗教者の役割は非常に大きいと、さまざまな自死遺族と語り合う中で感じています」
「命の問題と真剣に向き合い、苦悩されている方に温かな眼差しを向ける宗教者の方が、一人でも多く増えていただければと願っております。宗教者の皆さま、大切な人を自死で亡くし、絶望のどん底にいる方をサポートするお手伝いを一緒にしていただけませんか。宗教者の皆さまの力が必要なのです」
その後、その日参加した宗教者全員で、今まさに苦悩の中にいる人々を思い、祈りをささげた。
行進に参加した榎本氏は、「キリスト教でも、かつて自殺はタブーで、教会で葬儀をあげることもできない状況がありました。最近は少しずつ変わってきていますが、まだまだそのような雰囲気は残っています。大事なのは、まさに目の前で苦しんでいる人とどう向き合うのかということ。それを痛感させられています」と話した。