NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が好調だ。視聴率は27パーセントと連続テレビ小説の歴代最高視聴率にも迫る勢いだという。6日には大阪YWCAで、ヒロインのモデル、広岡浅子をテーマにしたスペシャルトークライブが行われ、ドラマにも登場する一柳満喜子を描いた『負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々』(2011年)の著者で作家の玉岡かおるさんと、一粒社ヴォーリズ建築事務所史料・広報室長の芹野与幸さんが、広岡浅子の魅力やキリスト教信仰について語り合った。
『負けんとき』の主人公は、伝道師で多くの教会や大学を建築したウィリアム・メレル・ヴォーリズと結婚した一柳満喜子だ。(浅子の娘亀子の夫広岡恵三は満喜子の兄、浅子にとって満喜子は義理の息子の妹に当たる)。タイトルも浅子から満喜子に送られた人生を変えることになった言葉からとられた。「勝てとは言わない。でも自分に負けるなよ、という言葉が浅子の人柄を表しているように思えました。そこからタイトルに使わせていただいたんです」と玉岡さん。「執筆のために取材をしていた頃は、浅子ゆかりの清岡ミュージアムに調べにいっても、学芸員さんも名前を知らなかった。彼女がこんなに有名になるとはびっくりです」と現在の反響に驚きを語った。
大阪では、浅子が設立に貢献した大同生命でも展示が行われており、1日1400人が訪れるほどの人気ぶり。北浜では、「五代ロス」という言葉もできた五代友厚の銅像と一緒に写真を撮る女性たちの姿が途切れないほどの人気だそうだ。
広岡浅子は、明治・大正を代表する女性実業家で、1849年富豪三井家の三井高益の四女として京都に生まれ、良家のお嬢様として、和歌や茶華道などを学ばせられたが「女子も人間です。人間は学問をしなければなりません。女子にも学ぶ機会さえ与えられれば、必ず修得する頭脳はあります」と両親に反抗して育った。
17歳で大阪の豪商・加島屋の当主、広岡信五郎に嫁ぐ。花柳界に入り浸りだった夫に代わって実業界に身を投じ、石炭の鉱山や銀行の経営に当たり、現在の大同生命の創立にも関わった。
男に負けない度胸を持っていた浅子は、明治維新で大阪の富豪たちが没落していく中、諸藩の屋敷を訪ね回って直接貸金を回収、鉱山の現場監督として、護身用のピストルを携えて暗い坑道に入って行ったという。
40代後半に女性教育の先駆者であった成瀬仁蔵と出会い、1901年の日本女子大学校(現日本女子大学)開学に尽力。1911年に大阪教会(現在の日本基督教団大阪教会)で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになる。また女性の人権・地位向上に尽力し、売春問題に苦しむ女性の救出に力を注ぎ、日本キリスト教女子青年会(YWCA)中央委員などを務めるなど、晩年までキリスト教の女性解放にも従事した。
ドラマ「あさが来た」は、作家古川智映子『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』が原案となっている。
広岡浅子とキリスト教
この日は玉岡さんと芹野さんから、実は「ドラマチックに分かりやすくするために、史実とは少し異なった脚色もあるんです」と小説家、専門家ならではの詳しい歴史背景の解説やエピソードが語られた。(実は五代様も福沢諭吉も、浅子とは史実では接点がないそうだ・・・ちょっと残念?)
さらに話は、浅子と当時の社会の中のキリスト教についても広がった。
浅子に大きな影響を与えたのが牧師の成瀬仁蔵だ。留学先のアメリカで女子高等教育の必要性を感じた成瀬が書いた『女子教育』の「女子をまず人として、第二に婦人として、第三に国民として、教育する。この順序を間違えてはならない」という理念に感動した浅子は、日本女子大学校開設のため、人脈を生かして大隈重信、渋沢栄一など政財界の重鎮に働き掛けるなど大きく尽力した。
60歳を過ぎ、悪性腫瘍(乳がん)を患うが、手術をして一命を取り留め、成瀬の紹介で大阪基督教会(現在の日本基督教団大阪教会)の牧師、宮川経輝(つねてる)と出会い、教えを受ける。宮川は海老名弾正、徳富蘇峰などと共に熊本バンドの一人として同志社の第1期卒業生となり、大阪基督教徒青年会(大阪YMCA)初代会長など日本プロテスタント史で大きな役割を果たした人物だ。また救世軍の伝道者として知られる山室軍平(1872~1940年)とも交流し、1911年に洗礼を受けてクリスチャンとなった。
玉岡さんは「洗礼を受けて浅子は大きく変わった。それまで家を継ぎ、娘に相手を見つけ、大同生命を設立する、と事業と家族とご先祖のために全力を注ぐ生き方から、世のため人のためと違う目を見開かれたんですね」「教会に行くとクリスチャンは毎週ドネーション(寄付)する習慣がある。日本には『お布施』はあるがそれは見返りを考えてしまうもの。見返りを求めずに、後から来る人のためにいつか芽がでることを信じて種を蒔く、浅子もキリスト教でそれを知ったんでしょうね」と語った。
YW(ヤングウーマン)の生きたロールモデルとして生きた浅子
晩年は若い学生たちを招いて勉強会を主宰し、ここから市川房枝(婦人運動家、政治家)や、村岡花子(児童文学者、ドラマ「花子とアン」の主人公)などが育っていった。1917年には、この日の会場である大阪YWCAの創立準備委員長に就任、また廃娼運動にも尽力し、女性の教育や解放に尽くした。「後から来るYW(ヤングウーマン)がひきつけられて私もああなりたいという、生きたロールモデルだったのだと思います」と玉岡さんは述べた。
浅子は『基督教世界』という雑誌に九転十起生というペンネームで多くの文章を投稿していた。「家族制度と国民の退歩」という文章で、「もともと大名があって国を造るときに金持ちと貧民層に大きな格差があることが問題であり、家族制度のためにわが国がいかにその発達を妨げられたか」と書いているという。
「当時、男性中心の家族制度を女性の立場から堂々と厳しく批判しているというのはびっくりします」と芹野さんは先進性に驚きを語った。
広岡浅子と満喜子とヴォーリズ
浅子とヴォーリズの交流は晩年の数年にすぎないが、ヴォーリズが浅子のことを「母親のような存在になった」と詩に残しているほど、深い心の交流があったという。浅子が娘のように可愛がっていた満喜子がアメリカ人のヴォーリズと結婚する際、華族という家柄や外国人への偏見、日本国籍を捨てることから、家族の反対の声も大きかったが、これを「理想的な結婚」と呼んで応援した。「アメリカでは結婚相手は『ベターハーフ』『人生のパートナー』と呼ぶことを浅子は知っていたんですね。でもあの時代にそれを言えたのは大変なことだったし、満喜子にとってはとても心強かったと思います」と芹野さんは述べた。
会場の女性からは
会場の女性からは、「毎日ドラマを見ていますが、広岡浅子が、キリスト教の中で大きな仕事をした人たちとつながっていると知ってとてもうれしかったです。ヴォーリズと満喜子が対等のパートナーとしていけたのは、浅子の応援があった。そしてそれは日本の近代の歴史の中で、キリスト教が日本の家制度を変えたという役割を果たしたこととつながっているのだと思いました」との声もあった。
ドラマ「あさが来た」も残す放送はあとわずか。日本のキリスト教の歴史に大きな足跡を残した満喜子・ヴォーリズ夫妻とクリスチャン広岡浅子のつながりにも注目しながら見てみると、また新たな発見がありそうだ。