長崎で自ら被爆しつつも、被爆者治療に最後まで尽力した永井隆博士(1908〜51)の生誕から3日で100年を迎えた。カトリック信者である永井氏は、原爆投下時に爆心から約700メートルの距離で被爆。右側頭動脈切断という重症を負いながらも人々の救助に当たった。被爆後6年目で他界するが、それまでに「原子病と原子医学」などの研究を発表、ローマ教皇の特使やヘレン・ケラーなどが見舞いに来た。
永井氏は戦前、長崎医科大(現長崎大医学部)で助手として放射線物理療法の研究に取り組み、カトリック信者であった妻・緑の影響などから26歳で受洗。カトリック信者となった後では、無料診断・無料奉仕活動なども行った。1945年8月9日、長崎への原爆投下で自らも被爆し重症を負ったが、直ちに救護班を組織し被爆者の救護に当たった。幾度も昏睡状態に陥るという身体であったが、長崎医科大に同年「原子爆弾救護報告書」を提出。翌年には同大教授に就任した。その後、大学を休職し療養に専念するようになるが、ローマ教皇の特使が見舞いに訪れ、長崎名誉市民の称号を受けるなどした。
長崎市は永井氏の生誕100周年を記念して、長崎原爆資料館で1日から3日まで記念の特別展を開催。同氏の著作「長崎の鐘」に影響され、同名の歌を作曲した故古関裕而氏に永井氏が送った手紙などを展示した。
永井氏は被爆後、「長崎の鐘」(1946年)、「ロザリオの鎖」(1948年)、「平和塔」(1979年)など没後に発行されたものなどを含め、10以上の作品を執筆。長崎市や、同氏が幼少青年時代を過ごした島根県雲南市には永井隆博士の記念館が建てられている。