二月になり、鳥羽でペンテコステ大会が開かれた。アイバーソン牧師が講師として招かれていた。開会礼拝メッセージは私にもなじみのある話で、前にも聞いたことがあった。部屋に帰ると、牧師たちが数人、説教を評価していた。私も「実は・・・・・・」と口を開こうとした。アメリカに行った時に、ポートランドの教会でアイバーソン牧師の著書を全部送ってもらっていた。礼拝テープも毎週送られてきていた。しかし主が私の口を閉ざされたので、黙って部屋を出た。翌朝の聖会前に祈っていると、「わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた。』とあなたが言わないためだ。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」 (イザヤ48:6−8)との聖書のことばが迫ってきた。
みんなには話さなかったが、確かに私は説教を聞いた時、「ああ、私は知っていた」と心で語ったのだ。神様は私を責められた。悔い改めて聖会に臨んだ時、聖霊は大波のように押し寄せてきた。外側に起こる新しいことに有頂天になっていたが、実に主は、心の奥深く、霊の奥底に新しいことをしようと、年末から語りかけていたのだ。それなのに、私の耳は開かれていなかったのだ。その日の聖会は、それまでに出たどんな聖会よりも心探られ、新しくされた時だった。
当時のペンテコステの聖会では、賛美の時に踊ることがよくあった。私はクリスチャンになる前から身体が硬く、踊ったこともなければ、その必要も感じなかった。学院の朝のチャペルでも、学生たちはよく踊った。私は顔はニコニコしながら、心では苦々しく思っていた。元気な学生は、何とかして院長を踊りの輪の中に入れようと手を引っぱりにきたが、それでも私は絶対に踊らなかった。そしてそのほうが自由だとうそぶいていた。
その聖会の朝も、隣にいたかわいいレディーが、賛美とともに身体がリズミカルに動き、踊りだした。座布団の上でスキップしている。はしたないなあと考えながら歌っていると、「お前は自分の身体のために跳んでいるが、わたしのためには足一つ動かさないのか」との語りかけを聞いた。私はそのころ、毎朝1000回縄跳びをしていた。聖会にも縄跳び持参で来ていた。朝も早く起きて、祈りつつ散歩してから、聖会に臨んだのだ。びっくりして周りを見回したが、みな賛美に熱中している。主が語ってくださったのだ。
見よう見まねで、隣の姉妹のステップに合わせて足を動かした。踊ると言ってもステップを踏むだけだが、私にとっては革命的な出来事だった。主の霊のあるところには自由がある。秩序ばかり重んじる生真面目人間だったが、神の秩序ではなく、自分で決めた枠の中にいたことが分かった。そして、真の新しさは霊と心の自由であり、聖霊に満たされ、内なるものが変わる時、外も大きく変化することを悟った。
聖会後、アイバーソン牧師は大牟田の教会に行かれた。そのことを聞いた時、神が語ろうとしているのは力と権威のメッセージだけではないと示され、私も大牟田まで行くことにした。そこで聞いたのは、案の定、愛がなければ力も権威もむなしいとのメッセージであった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)