4.ムスリムへの伝道:何が留意点か?
イエスの大宣教命令の対象は、世界の人々である。それには、ムスリムも含まれると思う。ムスリムに対する伝道ということで留意すべきことは何であろうか。思うことを少しつずってみたい。
北米や欧州など、いわゆるキリスト教文化圏のなかでムスリムへの改宗者が増加を続けている一方、レバノンや欧州では、ムスリムからキリスト者に改宗する者も出てきている。そのなかには、シリアやイラクからの難民も含まれている。韓国人宣教師による働きが大きいというニュースもある。
分からないことが多いが、「直接、夢のなかで聖霊の働きがあって、イエスに会った」などの証言もある。実際、サウロがパウロになった大転換は電撃的なものであり、神の直接の介入によるもの、人の業ではないとの証しもある(使徒22:6~10)ので、このような例が実際に出てきたことは、主の意志によって聖霊の働きが活発になっているとの解釈は可能と思う。
ISの戦闘員がキリスト者になったとの報道もあり、不可能のように思えることのなかに主の御手が働いて、超自然的な業によって事が運ばれていることがあるとも解釈できる。
ムスリムと共有できる価値観
ムスリムの「神は偉大なり」という言葉。日本語では、そのように表現されていることが多いが、やや正確さを欠いている。アラビア語の表現では、「神は何にもまさって偉大である」(The God is the greatest)。この地上、そして宇宙のなかにあって、「その名を超えるだけの偉大な存在は他にない」という意味が含まれている。その部分は、われわれにも同意可能である。
また、アラビア語の挨拶「こんにちは」(アッサラーム・アレイクム=あなたに平和がありますように[神様のご加護がありますように])は、ムスリムの挨拶の言葉にもなっているが、ユダヤ人の挨拶(へブル語の「シャローム」)とアラブ人の挨拶はどちらも、「あなたに平和がありますように」という意味が共通していることも興味深い。
イスラムの価値のなかには、道徳律としてみた場合には、喜捨や断食(神への精神集中のため)など理解できる部分がある。しかし、「救い」に関する信仰は異なる。ムスリムにおいては、イエスは預言者であるが「救い主」ではない。神性は認められない。ムスリムにおいては「天国に行けるかどうか」は、この世での行いに左右される。
ガラテヤ書簡からのヒント
今でも中東には「サウロのような律法主義者」が大勢いる。ユダヤ人だけではない。ムスリムに福音を説く際には、パウロがユダヤ主義者たちに対していかに対応したかについてガラテヤ書簡に記録されていることは、一つのヒントになるのではないだろうか。着目点は、「パウロが同胞に対して働き掛けた」部分である。パウロは「サウロ時代」には自らが筋金入りの律法主義者だった、そして、その律法への忠実さ、理解はずば抜けていた。彼は初代教会において、律法主義から完全には抜け出していない信仰者のなかに、おそらくは「昔の自分」と共通する部分を見たはずである。そうであるがゆえに、彼の証しは本質をついていると思う。そうしたことからすると、ムスリムへの伝道の「器」としては、ムスリムからの改宗者がその「任」に当たって適任の器になることは、十分考えられると思う。相手の価値観を最もよく分かっているのは、他でもない、このような人たちだからである。
姿勢
神は慈愛に富む方であるとは、ムスリムの信仰の中核にあることである。具体的に、いかにして神の愛がさらに実現されたのかを説くことが本質と思う。
イエスの公生涯では、教育・訓練・証し、そして「癒やし」がなされたことに思いを巡らしてみれば、それに当たっては「抱擁と癒やし」の心が必要ではないかと思われる。彼らの道徳の価値、共有できる部分を受容しながらも、「救い」は律法に基づく行いによらないこと、イエスの十字架上の死による「救い」の提供で、私たちは絶対神からの審判においてすでに「無罪」とさせていただいたという約束があり、その約束は「神の側から無償で提供された」ということの強調である。彼らの信仰基盤が日本人の宗教観と異なっていることは、紹介した通りである。唯一神との契約というのがムスリムの信仰の中核にあることから、福音は新しい「契約」であることの強調、そして、それは神からの恩寵にあることを示すことが肝要であると思う。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:15)
改宗後への配慮
欧米など第三国でキリスト者になったムスリムのなかには、祖国には二度と帰らない、あるいは帰れない者がいる。棄教・改宗が分かった場合には、家族のなかでも、地域社会でも、国でもその後の人生がないと知れば、第二の人生を目指していくのは当然であろう。改宗のあと、出身地域で生きられるかどうかは、地域によって異なる。
従って、私が思うのは、ムスリムに対する伝道においては「改宗後の道」も併せて考えていくことが、伝道者にとって責任ある態度ではないかということである。日本ではまだ事例が少ないと思うが、こうした本質的な課題は、キリスト教会関係者にはよく理解されている必要があると思う。
本人が、「もはや自国には戻れない」という願いを真剣に出す場合には、共に主の導きを求め、一緒に考えていく必要がある。国によって事情は相当に異なるし、また、本人を取り巻く家族、地域社会の状況は本人しか知らない。この事情は、1対1の対話のなかで確認していくしかない。
世界の難民・国内避難民の数は5千万人を超えているとされる。そのなかに、中東の人々が多い。例外的に日本では難民の受け入れが少なかったため、教会のなかでこのような課題が議論されることはまれであったであろう。最近、シリアの大混乱のために難民になった人々の受け入れが多くの国で検討されているが、このような課題は、日本でも「他人事」では済まなくなる可能性がある。
それにしても思わされるのは、今の中東の大混乱はシリア・イラクが中心になっていることである。傑出人であるパウロが、サウロから大転換した場所、その「召し」があったのは、シリアの首都、ダマスカスの近郊と推定される。確かにその時は、ダマスカス近郊で激しい聖霊の臨在が彼にあった。
そのシリアはIS問題で世界の注目を集めている。このひどい現実から、私たちキリスト者は何を解釈できるのだろう。
最後に「インターネットの最大活用を」
インターネット上で情報の大洪水の時代になっている今、地球規模での「神の言葉」の発信はさらに活発になされる必要があろう。光を放ち続けることである。インターネット空間は、善悪入り混じる、無秩序空間に等しいが、「神の言葉」「救い」を教える聖書に出会うことは可能になってきており、人類史上の大革命であるインターネット技術については、私たちに最大の活用が求められているのではないだろうか。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)
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