義嗣が生後八カ月の時、私は世界救世教の信者に請われて、家庭集会に出かけた。そこに家内から、「息子の様子が変だから、すぐ帰ってほしい」との連絡が入った。
ちょうど集会も終わっていたので、四十分ほどの道のりを急いだ。医者は「風邪だと思うので、今夜もう一晩様子を見ましょう」と言った。一睡もしないまま夜明けを迎え、家内はミルクを与えた。義嗣は飲み終わると同時に全部吐き出した。おむつを換えると、血便だった。その異常さに家内は小児科に走った。「子どもをすぐ連れてきなさい」。義嗣を診察した医者は、「ここにはレントゲンがないから何とも言えないが、腸重積かも知れません。昨日からですから急がないと間に合わないかも・・・」と言う。医者は救急車を呼び、県立奈良中央病院への紹介状を持たせ、「病院に着いたら受付を通らず、直接小児科病棟へ駆け込んでください」と命じた。
義嗣を救急車の中で抱きしめながら、「神様、預言によって十二年目に与えられた子どもです。どうかいやしてください。助けてください。あなたの御手にゆだねます」と祈った。ところが祈った途端、不安になった。
牧師として教会員の相談にのる時、最後には必ず「神様におゆだねしましょう。大丈夫ですよ」とアドバイスし、そのように祈っていた。説教でも、神様にゆだねないで心配したり思いわずらったりするのは、不信仰だからだと強調していた。しかし「この子を御手にゆだねます」というのには、生きることだけではなく、召されることも含むのだ。「ダメです。主よ、助けてください」と必死で祈るうちに、救急車は病院にと着いた。
ちょうど土曜日で、診察は十二時まで。お医者さんたちは、囲碁大会を予定しており、もう白衣を脱いで帰りかけていた。婦長さんは義嗣の真っ赤なほほを軽くたたきながら、「まあ、金時さんみたいな顔をして。元気元気、大丈夫よ」と、慌てふためく私たちを落ち着かせようとしてくれた。それでも普段はもの静かでおとなしい家内は必死だった。
レントゲンで調べると、すでに癒着が始まっていた。緊急の招集で再び白衣をまとった医者たちは、必死で義嗣のお腹をもんだ。結論を言えば、開腹以外に助かる手段はなく、義嗣は手術室に運ばれた。私はいっしょに入ろうとして、「ここから先は私たちにお任せください」と、看護婦にさえぎられた。その時、医者の手に任せる以外に何もでいきないのなら、全能の神にゆだねることはもっと大切だと悟った。今度は「全能の愛の主よ、義嗣をあなたの力ある御手にゆだねます」と、何の迷いもなく祈ることができた。
主にゆだね、医者の手に任せて、平安な心で待つうち、手術室のランプが消えた。一瞬、恐れと不安がよぎり、立ち上がった私たちの前に、医者の笑顔があった。
点滴を受けながら病室に移された義嗣は、スヤスヤと眠っていた。家内はそれから十日間、ほとんど徹夜でつきっきりだった。私は韓国ソウルでの聖会に招かれていたため、二人を主にゆだねて出発した。
二週間後に帰国した父を、元気な足音が迎えてくれた。小さな手を上げながらくるくる回る義嗣を抱き上げ、「高い高い」をすると、キャッキャッと大喜びだ。やっと下に降ろし、カバンを開けて小さな土産を渡すと、声を上げて喜んだ。
そんな義嗣の様子を見ながら、イエス・キリストに救われた神の子たちが賛美する時、愛なる神はさらに私たちを引き上げてくださることを知った。賛美は人生を高め、神をほめたたえることは、天国の喜びである。神はすべての必要を知り、求めない先から満たしてくださるのだ。すべてのことに感謝することは、神がもっとも喜んでくださることだと分かった。「イエスさま、信じます。イエスさま、感謝します。イエスさま、従います」ということばを口癖としたい。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)