日韓国交正常化50周年を記念して、同志社大学大学院社会研究科助手で日本基督教団洛陽教会協力宣教師の李善恵(イ・ソンヘ)氏による講演「賀川豊彦と韓国」が19日、賀川記念館(神戸市)で行われた。
2006年に宣教師として来日した李氏は、同志社大学でプロテスタント教会が社会福祉に及ぼした影響について研究。その中で触れた賀川の言葉「宗教は生命の本質と生命の表現の両側面である。宗教運動と社会事業を分けてはならない。生の全ての行動が宗教運動である」に深い感動を覚えたという。宣教師として教会の働きに携わる一方、ソーシャルワーカーとしても働き、博士論文では「賀川豊彦の社会福祉実践・思想が韓国に及ぼした影響」をまとめた。
賀川豊彦(1888~1960)は、牧師をしながら、農民・労働運動、協同組合運動、平和運動など、幅広い社会運動の分野で活躍し、ノーベル平和賞にも3度候補として上がっていたことが知られている。さらに2009年には、賀川がノーベル文学賞の候補に日本人としては初めて、しかも1947年と48年の2回連続で上っていたことが明らかになり、日本でも近年再評価がなされつつある。
韓国で注目集まる賀川豊彦
李氏によると、韓国ではこれまで内村鑑三と比較して賀川の研究は少なく(2013年の統計では、内村に関する論文109点に対し、賀川に関する論文は23点)、注目度には差があるという。しかし、2009年には、「社会宣教献身100周年」と題して賀川をテーマにシンポジウムがソウルで行われるなど、最近注目が集まっているという。
その理由として、李氏は2つを挙げる。1つは、日本と同様、韓国では経済格差が広がっており、キリスト教と社会運動という視点から興味が集まっているためだ。また、韓国では2012年に協同組合基本法が制定され、7759団体の協同組合(2015年現在)が活動しているが、その約半数は出資金50万円以下、組合員数は平均8・8人程度と小規模であり、大半の協同組合が経済的に自立できていないという問題があるという。協同組合の精神を見つめ直す視点からも、賀川に関する研究が増えており、その生涯を描いたマンガも出版されているという。
韓国大統領に初めて謝罪した日本人
韓国では、賀川は牧師、社会運動家として知られているが、特に韓国の初代大統領である李承晩(イ・スンマン)時代、韓国に訪問して日本人として初めて、日本の韓国侵略について謝罪した人物として、百科事典にも記述されているという。
日本人が閣下を虐待し、閣下の国民を迫害したことを、私は、キリストの名によって、閣下におわびし、閣下のキリスト教の精神に訴えて、お赦(ゆる)しをこうものであります。(毎日新聞、1955年12月8日)
これに対し、クリスチャンでもあった李大統領は次のように返信したという。
あなたは、日本の四十年にのぼる朝鮮支配に対する謝罪の意を表明されましたが、それは私の注意を引いた知名な日本人の最初の発言であります。(1955年12月19日、『増訂 賀川豊彦』1959年)
戦前の賀川豊彦と韓国
李氏はさらに、賀川と韓国の戦前のつながりについても資料に基づき報告。賀川が韓国併合の2年後の1912年に弟子に語ったという記述を紹介した。
今、日本がロシアの属国であるとするならば、僕等は日本の独立運動に立つであろう。そう考えると朝鮮のクリスチャンが運動を起すのは無理からんことである。にも拘(かかわ)らずこれに弾圧を加え、多くの犠牲者を出すことは、弾圧される者よりも弾圧する者が災を受けるのであり、その災は皇室にも及ぶ。
また、1919年の3・1独立運動の中で起きた、韓国人の虐殺事件についても、厳しく批判した文章を当時の中外日報に寄稿している。
李氏は、賀川は当時の中国の革命家でクリスチャンだった孫文と交流があり、孫が韓国の独立運動を肯定していたことが、賀川が韓国のキリスト教徒による反日独立運動を支持し、弾圧する日本の行動を痛嘆したことにつながったのではないかと指摘した。
賀川豊彦が韓国で否定的に評価されてきた要因
また資料によると、賀川は1920年から数回訪韓している。1939年には、日本キリスト教連合会と朝鮮キリスト教連合会の協力で訪韓しており、「社会事業の先鋒、世界的伝道者 賀川豊彦先生大講演会」が行われ、「半島の内鮮の諸宗派の教徒の一致した渇望に動かされ」て朝鮮を訪れた、と紹介されているという。しかしこれは、当時の韓国の教会は日本の皇民化政策の下、クリスチャンに対しても神社参拝が強いられていた政治的背景があったことを考慮する必要があるとし、当時の朝鮮耶蘇(やそ)長老会が出した声明書を紹介した。
朝鮮耶蘇長老会総会第二十七回総会声明書
我等は神社は宗教ではなく基督教の教理に違反しない本意を理解し神社参拝が愛国的国家儀式であることを自覚しまた神社参拝を率先励行追(つい)に国民精神総動員に参加し非常時局下に銃後皇国臣民として赤誠をつくすことを期す。
昭和十三年九月十日 朝鮮耶蘇教長老会会長 洪沢麒
李氏は、神社参拝をめぐり、賛成派と反対派が対立し韓国の教会が政治的に分裂していた時代に、賀川の訪韓と教会一致の訴えは、政治的な意味合いをもっていた、とも指摘した。
こうした賀川が当時の皇民化政策に協力したと捉えられても仕方がないような側面は、不敬事件を通して信仰を守ろうとした内村と比較したとき、賀川が韓国で否定的に評価される一因となっているという。
また、賀川が、著書『死線を越えて』(1920年)によって、キリスト教社会主義者として捉えられていることも、保守的な韓国のキリスト教界では反発を生んだという。
韓国における賀川豊彦の再評価
しかし近年、格差が広がる中、「生命の本質」と「生命の表現」のバランスを強調しつつ、教会を通して貧民救済やセツルメント運動、共同組合運動、農村・労働運動など行った賀川の思想は、韓国でも再評価されているという。
また、賀川から影響を受け、韓国で障がい者福祉や農民運動、教育現場における社会福祉などに取り組んだ韓国人クリスチャンらに対する研究の関係でも、賀川への関心が高まっているという。
李氏は最後に、「貧富の格差が広がる現代、キリスト教信仰に根ざしながら、『わかち合う』こと、『共に生きる』ことに焦点を当てた賀川の生き方は今、韓国であらためて考えるべきだと捉えられているようです」と述べた。そして、「私自身、宣教師をしながらソーシャルワーカーとしても働き、どう生きているかということをあらためて考えました。自分の幸せだけではなく、痛みを分かち合う、シェアすることをいつも考えながら、これでいいのか、私が持っているものを分かち合えているのかと自問しながら、賀川豊彦をこれからも研究していきたいと思います」と話し、講演を締めくくった。