キリスト教社会運動家、労働運動家、国会議員など幅広い活動をした賀川豊彦(1888~1960)の精神を引き継ぎ、その働きや事業を顕彰する賀川記念館(神戸市中央区)で、開館50周年を記念して胸像が設置され、21日に除幕式が行なわれた。関係者など約30人が集まり、同館内にある日本基督教団神戸イエス団教会の上内鏡子牧師の司式の下、胸像の設置を祝った。
この日披露された胸像は、高さ約2メートル、幅60センチ、奥行き60センチ。社会活動や貧民救済に生涯をささげた賀川豊彦が、ネイビーブルーのスーツと柔和な顔立ちで再現された。彫刻家の小杉三朗氏が、粘土の原型の上に漆(うるし)を浸した麻布を何層にも貼っていく「乾漆(かんしつ)」という方法で半年かけて制作した。
小杉氏は「賀川豊彦の人間としての温かみを表現するために、大きなふっくらとした手に特に力を入れて作りました。これをきっかけに現代の若い人にも賀川豊彦の生き方をぜひ広く知ってほしい」と話した。
賀川記念館は1963年にオープン。賀川の社会活動や労働運動、YMCA、キリスト教の伝道活動などを振り返るミュージアムや、スラム街で労働者のために開業した一膳飯屋「天国屋」にちなんだ「天国屋カフェ」、研究室などが併設されており、年間約3千人以上が訪れる。
賀川は戦前、インドのガンジー、米国のシュバイツァーと並び、「貧民街の聖者」として日本よりも海外で知名度が高かった。そのため現在も海外からの訪問客が多く、韓国や中国の牧師が研究のために訪れることも多いという。同館の西義人参事は、「日本と同様、韓国や中国でも経済格差の広がりに社会が苦しんでいる。キリスト教と社会運動の両面に人生をささげた賀川豊彦の生き方に、現代の教会のあり方のヒントが求められているように思う。ぜひ日本でも多くの人にその生涯を知ってほしい」と話した。
賀川豊彦は神戸生れ。戦前の日本の労働運動、生活協同組合などで大きな役割を果たした。16歳のとき、日本基督教会徳島教会で南長老ミッションの宣教師から受洗。キリスト教社会主義やトルストイの反戦運動に影響を受け、17歳で明治学院高等部神学科に入学した。
21歳のとき、神戸のスラム街に住み路傍伝道を開始し、女工だったハルと出会い結婚。その後、米国のプリンストン大学、プリンストン神学校に留学。帰国後は牧師としても活動する。1920年に出版した自伝的小説『死線を越えて』は、当時の大ベストセラーとなり、一躍名を知られるが、印税のほとんどを社会運動のために投じた。
また労働者の生活の安定のため、神戸購買組合(現・コープこうべ)を設立するなど生活協同組合にも取り組んだ。その後も労働運動、無産運動を取り組みながら、1920年代は「神の国運動」を開始。日本全国や、中国、米国など海外でも伝道活動を行なった。
戦後は貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画。ブラジルやタイなど海外での伝道活動も続けた。また近年の資料から、1947年と48年にはノーベル文学賞の候補に、1954年から56年にかけてはノーベル平和賞の候補者として推薦されていたことが分かっている。1960年死去。勲一等瑞宝章を贈られた。