一学期はジレンマだった。
ちょうどそのころ、私たち夫婦は、登校拒否の中学二年生の女の子を預かって育てていた。彼女が通う中学には給食がなく、しかも妊娠中の家内は絶対安静の身。弁当作りから、家内の世話、炊事、洗濯、掃除、学院の朝の祈り、授業。次から次へと諸問題が迫ってきて、毎日大騒動だった。(そのわが家のもう一人の娘、みっちゃんもやがて高校に進学し、後には中学の音楽の教師になった。長いこと会っていないけれど、懐かしく思い出す。)
その時、主は「一所懸命」を教えてくれた。「一生懸命」の書き違えではない。学院にいる時は学院のことだけを考え、教会まで自動車で七分移動する間に頭を切り換え、教会のことだけを考えるのである。一日だけ生きる。明日のことは、明日が心配することに徹してみた。夜ベッドに入る時は、死ぬことにした。そう決心すると、死んだように眠れた。それは二十一年経った今でも継続している。ともかく与えられた一日のエネルギーを使い切ってしまう。すると聖霊によって死ぬべき身体に、復活のいのちが注ぎ込まれる。ジレンマから解放され、ストレスもたまらなくなった。主を待ち望む者は、新しい力を受ける。走っても疲れない。と言っても私はあまり走らない。走るのは苦手だが、歩いても弱ることはない。鷲のように翼をかって上ることができる。聖書の約束が実際的であることを体験した。
この年の六月、結婚十二年目にして長男誕生、神様の特別なプレゼントだった。父親になった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)