生駒聖書学院は、奈良県生駒市にある、牧師、伝道師、宣教師養成の神学校である。イギリス人宣教師レオナード・W・クートによって一九二九年に創設され、戦時中の迫害や試練を経て、一九五〇年に再開、今日に至っている。
クート師は一九一三年に来日し、神戸でイエス・キリストによる生まれ変わりを経験した。その後、異言のしるしが伴う聖霊のバプテスマを体験し、五年間のビジネス生活にピリオドを打ち、本国の教会や、どのキリスト教団体にも所属せず、独立の宣教師として、聖書と聖霊だけを信頼し、生駒聖書学院を創設した。一九七五年、七十五歳の時、糖尿のため体調を崩し、アメリカの息子のもとに行き、その二年後、日本のリバイバルを願いつつ、「前進!」と叫んで、召されていった。
ちょうどそのころ、学院にはダビデ・カップ宣教師が借家をしていた。ベタニヤ・ミッションの宣教師として、上野福音キリスト教会(藤江士善牧師)や、奈良ベタニア教会(吉開稔牧師)を建て、働きを進めていた。クート師に留守中の学院を託されたカップ師は、アメリカの母教会とショック牧師の承認を得て、その任に着いた。
主を賛美することのすばらしさを強調し、創立者不在の学院に新しい聖霊の風をもたらし、試練の冬を乗り切ったカップ師は、現在はロングビーチのベタニヤ教会の牧師として活躍している。
カップ師帰国後も、院内に借家していたNTCの宣教師クレメンズ師が、院長代理として二年間学院を守ってくれた。
その間、だれが院長になるかが大きな問題となった。生駒聖書学院は、宗教法人生駒日本ペンテコステ教会に属する神学校である。同時に超教派的神学校としても知られていた。卒業生の多くは教団や単立教会をもち、それぞれに活躍しているが、ペンテコステ教団自体はまだ小さな群れであった。最後の最後に私に白羽の矢が立ったが、それも多くの論議を呼び起こした。まだ若いし、それほど実績があるわけでもない。反対者はアメリカへ手紙を送り、それを阻止しようとした。直接面と向かって忠告する者もいたし、脅しとさえ取れる発言もあった。
クート師には「ほんとうに聖霊様が語っただか」とよく言われたが、院長就任にあたっては、聖霊の導きと確信があり、反対や非難の中にあっても平安だった。しかし風当たりは強く、最初の二年間は院長代理として就任した。
私が院長になると同時に、今まで学生を送っていたある教団は、在学中の五名のうち四名までを引き上げてしまった。しかし主はそのような試練の門出を、十三名入学という祝福で祝ってくださった。生駒聖書学院としては、それまでになかった数である。彼らは今、日本のリバイバルの器として、それぞれ用いられ活躍している。
試練は経済的な面でも襲ってきた。それまでは少ないながらも、諸外国からのサポートや宣教師関係のミッションからの援助があった。ところが私が責任をもつと同時に、外国のサポート名簿はアメリカへ行き、全部の支援がストップしてしまった。教団のわずかな援助と学生が納める小額の月謝だけがすべてだった。その上、未払い分の請求書の山だ。しかし「アドナイ・イルエ(主の山に備えあり)」「不可能は挑戦となる」が、就任へのプレゼントだ。神のことばの約束に変わりはない。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)。イエス・キリストのことばに間違いはないのだと信じて乗り切った。
富雄キリスト教会は、私の働きを全面的に応援してくれた。学院の事務を担当したのが教会の伝道師だったこともあり、すべてが整えられていた。何年も無給で、院長室すらなかったが、ともかくやるしかないと主にゆだね、祈りと信仰の歩みだった。
両立は難しいとよく言われ、牧会か学院かどちらかを選ぶよう、常にアドバイスされた。しかし問題を指摘するのは易しいが、解決法を示さないアドバイスは聞くに値しない。問題を指摘する以上、解決策を提示し、祈り、支援しなければ、行ないのない信仰となると常に思う。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)