「わたしは、道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)
1. エリートコースを歩んで
私は東京の下町・浅草で生まれ育ちました。父は祖父の代からの米屋です。長男の私は、商業高校を卒業してすぐに米屋を継ぐものと父から期待されていました。気力も体力も強い父は、非常に厳格だったので一緒にいるだけで緊張してしまい、私は何とかして父から逃げよう、逃げようとしていました。
一生懸命勉強して、普通高校に入り、早稲田大学商学部に進学しました。「大学に入れば父はあきらめてくれるのではないか」と思ったからです。けれども早大に入学したその年に、近所の米屋の息子さんが、同じ早稲田大学商学部を卒業して、米屋を継いだのです。父からこれを聞かされた私は、4年後には私も米屋を継がなければならないのではないかと不安になりました。せっかく入った早大を中退し、翌年また受験して、東京大学法学部に入学してしまいました。
「灰色の受験生活」をやっと脱出した私は、その当時盛んだった反体制学生運動に首を突っ込んだり、自分の人生の目的を求めて、さまざまなクラブ活動に参加しました。授業にはほとんど出席せず、勉強する暇もあまりありませんでした。それにもかかわらず、なんとか大学を卒業し、運よく司法試験にも合格したので、自分の生きる目的もはっきりしないまま、弁護士の道を歩むことになりました。ここでようやく父もあきらめてくれて、結婚した妹の主人が米屋を継ぐことになりました。
弁護士になってからは、日本で最大手の国際的法律事務所で働き、日本と外国のさまざまな法律問題・紛争処理に携わってきました。20代の若さで一流会社の取締役や監査役に任命されたり、世界的大企業の代理人弁護士としてひんぱんに外国へ行って仕事をしました。外見的には大変華々しい生活をしていたと思います。
ところが、国際的な法律問題や紛争処理は、法律、文化、商習慣、言語などの違いがあるために非常に難しく、また仕事がどんどん増え、もともと気力も体力も弱かった私は、ストレスのため疲れ果ててしまいました。「何のために弁護士になったのか、父を継いで米屋をやっていた方がよかったのではなかったか」などと疑問を持つようになりました。
いずれは人は死んでこの世から消えていくことを思うと、「人生とはなんと果かなくむなしいものなのか」と考え込まざるを得ませんでした。人がうらやむような社会のエリートコースを登っていっても、「不安」と「むなしさ」と「無力感」はつのるばかりです。「人は何のために生きているのか」という人生の目的がわかりませんでした。
2.「イエス・キリスト」というお方と出会う
もう一度ゼロから出直してみようと思い立って、奨学金をもらってオーストラリアの大学に留学しました。国際弁護士の激務から解放されて、再び学生気分に戻り、初めのうちは天国にいるような思いで楽しく過ごしました。でもしばらくすると、社会から逃避したような学生生活にも飽きてきて、また「不安」と「むなしさ」と「無力感」が大きくつのってきました。
そんなときに、友人に誘われて、クリスチャンの集会に参加したのです。あたたかい愛と無邪気な喜びと揺るがない平安を持っている人々に集会で出会い、「彼らのように私もなりたい!」と思いました。それがきっかけで、友人たちと聖書を学んで、私を愛するがゆえに私を救うために十字架に架かり命までもささげてくださった、「イエス・キリスト」というお方と私の心の深いところで出会うことができたのです。
イエスに出会って、宇宙万物を創造し、支配している全知全能の唯一・絶対・永遠・無限なる神がおられることを知りました。しかも、その偉大な神の最も大切な本質は、「愛」であることがわかりました。目には見えない神が形をとって現れているのが、イエスというお方なのです。それからというもの、日々の生活の中で、神すなわちイエスの愛が私に無限に注がれていることを実感するようになりました。
まさに、人生は出会いで決まります。イエスというお方に出会ってから、私は180度転換してしまいました。それまで持ち続けてきた、「不安」、「むなしさ」、「無力感」という、私の人生の三つの根本的問題から一挙に解放されたのです。それにかわって、「平安」と「希望」と「気力」に満ちあふれるようになったのです。
(1)「不安」からの解放
まず、生活の根底にあった「不安」から解放されました。それまでの私の人生は不安の連続でした。米屋を継がされるのではないか、試験に落ちるのではないか、仕事に失敗するのではないか、病気になるのではないか。地震や戦争が起きるのではないか。日本は破滅していくのではないか。そのような不安を解消するために、がんばって勉強したり、活動に夢中になったり、仕事に励んだり、スポーツやレジャーに打ち込んできたように思います。そこには本当の平安はありませんでした。
「平安の君」であるイエスというお方を心の中にお迎えしてからは、神の愛と喜びと平安で満たされ、不安や恐れがなくなってきました。全知全能の愛の神が、私の本当の父であり、私を心から愛し、私を生き生きと生かし、私を完全に守り、正しく導いていてくださっていることを、日常生活の中で体験するようになったからです。今では、無条件に人を愛し、喜んで仕事をし、レジャーを心から楽しみ、安心して生活することができるようになりました。
(2)「むなしさ」からの解放
次に、「人はいつかは必ず死んでしまうのだ」という「むなしさ」から解放されました。それまでの私には、「どんなに学んでも、一生懸命に仕事をしても、愛する人たちがいても、地位や財産を築いても、死んでこの世から消えてしまったら、それらは何の意味もなくなってしまうのではないか」という、底なしの「むなしさ」がありました。
イエスを信じることによって、「神の命」すなわち「永遠の命」が与えられ、「肉体は死んでも、霊魂は天国で永遠に生きていけるのだ」という確信と、「イエスは再びこの世に来てくださり、イエスを信じる者に朽ちることのない復活の体を与えてくださるのだ」という希望を持つことができたのです。
(3)「無力感」からの解放
最後に、イエスに出会うまでの私は、いつも自分の「無力感」に悩まされてきました。やるべきこと、やりたいことはたくさんあるのに、それをやる力と知恵がないのです。しかし、イエスを信じてからは、神の無限の力と神の最高の知恵をいただくことができるようになりました。
今では、「神を信じる者には不可能はない!」と信じて、どんな難しい事件にも祈りつつ取り組み、神によるすばらしい解決を体験しています。こうして私は気力にあふれ、目の前に次々に展開する無限の可能性にチャレンジしています。
3. あらゆる問題の解決は「イエス」というお方にある
さまざまな問題や試練を通して、私の霊(スピリット)、思い(マインド)、体(ボデイ)、社会(ワールド)のあらゆる問題の解決は、イエスというお方にあることがわかってきました。死んでいた霊を生き生きと生かし、否定的・破壊的な思いを積極的・建設的に刷新し、病気の体を健康にし、破滅していく社会を建て直してくださるのは、イエスご自身であることを悟ったのです。
なんと、イエスというお方こそは、永遠の命そのものであり、無限の愛そのものであり、無尽蔵の富そのものであるのです。そのあまりのすばらしさに圧倒されるばかりです。私の生きる目的は、このイエスと出会い、イエスとともに生きるということなのです。
この「イエスといお方」が今も生きておられることを人々に宣べ伝えることは、私の最大の使命であり、私の最高の喜びです。私にとって弁護士はアルバイトに過ぎず、この「とてつもなくすばらしいイエスというお方」の存在を証言して生きることが、私の本業であり、私の生きがいです。この「イエスというお方のとてつもないすばらしさ」を伝えることができたなら、自分の命も惜しいとは思いません。
ささき みつお (国際弁護士)