安曇野市豊科近代美術館(長野県安曇野市)では、7月19日から9月7日まで、同館2階企画展示室、大展示室、交流学習センターきぼうホールで「生誕120年 宮芳平展〜野の花のように〜」を開催している。
これは、1994年、遺族より油彩画ほか500点余りと資料の寄贈を受けた同館主要の作家、宮芳平(1893〜1971)の生誕120年を記念した展覧会。同館によると、新潟県北魚沼郡に生まれた宮は、柏崎中学校在籍中に絵の道を志した。家族には画家になることに反対されたが、東京美術学校に入学を果たした。その在籍中に父を亡くし、生活が苦しい中においても制作を続けていた宮に、生涯の師と仰ぐ森鷗外と画家の中村彝との出会いがあった。
森鷗外は、訪ね行く宮に師や友人の大切さを説き、短編小説『天寵』においては「M君」として宮を描いている。また、中村彝は美術学校を中退し妻子ある宮に、諏訪に行き美術教師の職に就くように勧める。
以後、諏訪の地で高校の美術教師として、数校を兼務しながら苦しく辛い生活の中においても画家として、またキリスト教徒として真摯な魂を失うことなく35年間の教職生活を送った。この在職時代はもとより退職後も旺盛な制作活動を続けた。
「宮、初期の作品で森鷗外ゆかりの《落ちたる楽人》《椿》から晩年の『聖地巡礼シリーズ』『太陽シリーズ』などの油彩画や水彩画、ペン画、デッサン画ほか250点に及ぶ作品を展示し、宮芳平の人と芸術の全貌をご覧いただく」と、同美術館は説明している。
なお、茅野、練馬、島根、新潟とゆかりの地を巡回した最終展覧会会場となり、巡回美術館で協力作成した『宮芳平画文集 野の花として生くる。』(図録)他を販売するという。
同美術館は宮芳平とキリスト教について、「キリスト教との出会いは、旧制柏崎中学校時代(1906年4月~1911年3月)の英語担当教員(宮沢先生、笠原先生)が、週に一度有志の生徒を自宅に招いて聖書の講義を行っていたものに参加した。また、下宿先(1908年~)のひとつ、宮川トラホーム治療院(上級生の宮川哲朗宅)がクリスチャンであったことも影響している」と、本紙にメールで述べた。
同美術館によるとその経緯は次の通り(ただし、年号は本紙が昭和から西暦に変更)
1948年 娘より聖書をもらう。
1955年 知人より聖書をもらう、晩年にこれを愛読した。
1959年 京都宇多野の聖イエス会嵯峨野教会に出掛け、大槻武二司牧と交友する。
1966年3月17日~4月12日 CEO財団奉仕局主催の聖地巡礼ツアーに大槻司牧とともに参加する。
1967年 第41回国画会展に「きざはし」を出品。歌誌「コスモス」に紀行文「聖地巡礼」を寄稿する(~1969年まで)。
1970年 聖地巡礼を主題にした個展を銀座松屋画廊で開催
1971年3月2日 国立療養所宇多野病院に入院。
同年3月12日 開腹の結果末期癌とわかる。
同年3月29日 大槻司牧によって病室で洗礼を受ける。霊名「レンブラント」。
同年3月30日 永眠する。
同年4月1日 宇多野聖イエス会嵯峨野教会にて葬儀が行われる。
同年4月18日 日本キリスト教改革派上諏訪湖畔教会にて告別式が行われる。
1972年 第46回国画会展に「エフタとその娘」「ベデスダの池」が特別出品される。
開館時間は午前9時から午後5時まで、入館は午後4時半まで。休館日は月曜定休日。入館料は一般600(500)円、大学高校生400(300)円。( )内は団体料金で中学生以下は無料。4000人の入館を想定しているという。
交通はJR大糸線豊科駅下車、徒歩10分またはタクシーで約5分。またはJR篠ノ井線田沢駅下車、タクシーで約10分。詳しくは同美術館のホームページで。