現存する最古の和訳聖書「ギュツラフ訳聖書」の翻訳に携わった愛知県美浜町出身の日本人船乗り、音吉の足跡をめぐる北米ツアーが4月に開催される。
ギュツラフ訳聖書は、日本にキリスト教を宣教するためにドイツ人宣教師カール・ギュツラフがマカオで翻訳し、1837年にシンガポールで出版したもの。3人の日本人船乗り、岩吉、久吉、音吉がギュツラフの翻訳作業を助けた。「約翰福音之傳」(ヨハネ福音書)と「約翰上中下書」(ヨハネの手紙1、2、3)がある。一般の人でも読めるように、文字はすべてカタカナを使用。アスコ(あそこ)、アヨブ(あるく)、アーヌイテ(見あげて)などの尾張方言が混じっており、音吉たちの言葉遣いの影響を見ることができる。
音吉ら3人の発見は1960年、ロンドン大英博物館、シンガポールの古文文書館での調査でギュツラフの翻訳を助けた日本人がいることを確認した都田恒太郎・日本聖書協会総主事(当時)が、高橋秋蔵氏に依頼し、3人の名前を美浜町の良参寺の過去帳で発見。記録に残っていた「オノウラ」という地名が美浜町の小野浦で、3人が実在する人物であったことが明らかになった。
1832(天保3)年、音吉ら3人は11人の船乗りと江戸に向けて鳥羽を出帆したが、遠州灘付近で遭難。太平洋を14カ月漂流した後、アメリカ西海岸に漂着した。原住民のマカ族に救助された3人は、ハドソン湾会社の支配人に引きとられ、フォート・バンクーバで初めてキリスト教と英語に出会った。
1835年12月にロンドン経由でマカオに到着した3人は、そこでギュツラフの家に滞在することに。まだ見ぬ日本の人々に聖書を自分たちの言葉で読んでもらいたいと願っていたギュツラフは、3人との出会いに神の導きを感じた。翌年3月、シンガポールにいたアメリカ聖書協会のブリガムに手紙を書き、聖書翻訳を支援するようすぐさま要請。翻訳は1835年12月から始まり、翌年11月に完成したが、アメリカ聖書協会がその間72ドルを支援していたことが記録に残っている。
1837年に音吉らはモリソン号で日本を目指したが、当時の異国船打払令のために浦賀と鹿児島で砲撃に遭遇。日本への帰国は果たせなかった。岩吉と久吉については、その後詳しいことはわかっていないが、音吉はモリソン号事件の後上海に住み、1854年の日英和親条約締結時などは通訳としても活躍。1862年に移住したシンガポールでは、当時の遣欧使節団を訪れ、福沢諭吉と会うなどしている。1864年には日本人として初めてイギリスに帰化。1876年にシンガポールで死去した。音吉の墓は04年にシンガポールで発見され、遺灰の一部が日本に帰還している。
美浜町には、音吉らを記念するために日本聖書協会と愛知県の委員会が中心となって設置した聖書和訳頌徳記念碑がある。1961年に行われた最初の記念式典には、当時のドイツ大使夫妻や愛知県知事、名鉄社長をはじめ300人が出席した。以後、美浜町と日本聖書協会が毎年交替で式典を主催している。
今回のツアーは4月22日から28日までの5泊7日間の日程。米ワシントン州のマカ族文化研究センターや、音吉らの船が漂着したケープ・アラバの海岸、音吉らの記念碑があるフォートバンクーバー国立史跡公園などを巡る。参加費用は19万5千円。申し込みの締切は1月末日。申し込み、問い合わせは、音吉顕彰会(0569・88・5235)。