悟るべき事
マルコの福音書6章45節~56節
[1]序
今回の箇所には、二つの地名が記されています。一つは、45節の「ベツサイダ」、他は、53節の「ゲネサレ」です。この地名を手掛かりに、45~52節を、ベツサイダへ向けての湖上の出来事、53~56節をゲネサレでの出来事と二つに分けることができます。
今回は、前半を主に取り上げ、そこに見る弟子たち(52節に見るマルコ自身のことばに注意しながら)また主イエスご自身の姿に注意したいのです。その上で、主イエスの弟子たちに語りかけられることば(50節)に、特に焦点を絞ります。
[2]弟子たちと主イエス(45~52節)
(1)悟ることのない弟子たち
この場面に登場する弟子たちの言動に対して、52節でマルコは、「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」と意見・判断を明らかにしています。
マルコが明らかにしている視点に立ち、45~52節に見る弟子たちについて三つに分け、彼らの姿がどのようなものであるか確認します。
①主イエスに強いて舟に乗せられ、目的地ベツサイダへ向かう(45節)
この場面の発端(ほったん)に、「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ」(45節)とあります。
「強いて」と訳されていることば、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(ルカ14章23節)とあるように、「無理に」とも訳されることばです。強いる人の意志や考えが、強いられる人に大きく影響を及ぼすことを示しています。
ここで、1章12節を思い出したいのです。主イエスの荒野の誘惑・体験の記録の最初に、「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」とあります。
また主イエスが洗礼を受けられる場面(1章9~11節)。
②湖上の真中で、向かい風のため漕ぎあぐねている
③湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげる
(2)主イエスは
①祈り給う主イエス
「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」(46節)
②見給う主イエス
「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」(48節)
③来り、通り過ぎようとなさる主イエス
「夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」(48節)
④語り給う主イエス
[3]主イエスの弟子たちへのことば(50~52節)
(1)「しっかりしなさい。わたしだ」(50節)
主イエスに対する認識・信仰告白こそ「しっかり」するための鍵。
(2)「恐れることはない」と言われた
恐れる可能性のある者を見捨てることなく、呼びかけなさる。
[4]結び
(1)45~52節と53~56節
45~52節に見る現実の中で、53~56節に見るゲネサレにおける恵みの御業の進展。
(2)心を開き、悟る者として、ヤイロ(5章22節)のように
「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し」
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。