正気に返って
マルコの福音書5章1節~20節
[1]序
今回は、マルコの福音書5章に進みます。4章35~41節では、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(41節)と弟子たちのことばにあるように、風や嵐を静める主イエスの姿をマルコは描いていました。その背後には、34節までの主イエスの教えと35節以下の嵐の実地訓練・経験が「その日のこと」(35節)と堅く結ばれている事実を確認しました。
マルコの福音書5章1節からの記事では、「汚れた霊につかれた人」の解き放ち、いわば激しい嵐にもみくちゃにされている、一人の尊い人格の内と外を静める主イエスの姿を見ます(参照・詩篇107篇23~31節、特に29~31節)。
[2]ゲラサ人の地の「汚れた霊につかれた人」(1~14節)
(1)「ゲラサ人の地」
「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」(1節)。ゲラサとは、ヨルダン川の東岸約30キロ、ガリラヤ湖と死海のおよそ中間に位置し、ローマの直接支配地で、異邦人の住む地。参照20節の「デカポリス」、十都市、ヘレニズム都市連合。
(2)「汚れた霊につかれた人」
マタイやルカの一節だけの描写(マタイ8章28節、ルカ8章27節)と比較し、マルコはこの人について、かなり詳しく描いています(マルコ5章2~5節)。そのマルコの描写を二つの面から注意したいのです。
①人々のこの人に対する態度
イ)抑圧(よくあつ)
「もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである」(3、4節)
ロ)隔離(かくり)
「汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て」(2節)
②この人の自分自身に対する態度
イ)孤立
「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け」(5節)
ロ)自分自身を傷つける
「石で自分のからだを傷つけていた」(5節)
(3)正気に返るまで、「汚れた霊につかれた人」と主イエスのやり取り
①「汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた」(1節)。
②主イエス、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われる(8節)。
③6、7節に見る、「汚れた霊につかれた人」の主イエスに対する言動。
④主イエス、「汚れた霊につかれた人」に「おまえの名は何か」とお尋ねになる(9節)。
⑤「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答える(9節)。「自分たちをこの地方から追い出さないでください」と懇願(10節)。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください」(12節)と願う。
⑥主イエス、それを許す(13節)。
[3]「正気に返って」(15~20節)
(1)「正気に返る」ということば
15節で、「正気に返る」と訳されていることばは、新約聖書の他の箇所で、以下のような意味で使われています。
①ローマ12章3節
「……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」
「……信仰の量に従って節度のある思いをするように」(前田訳)
②Ⅱコリント5章13節
「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」
③テトス2章6節
「同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい」
「すべての節度があるように勧めなさい」(前田訳)
④Ⅰペテロ4章7節
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」
(2)「正気」とは
2~7節に描かれている姿と反対の状態。しかしそれは単に外面的なことではない。ローマ12章3節が教えているように、信仰を与えられ、節度ある思いをもって、はじめて正気な状態であると教えられます。
またⅡコリント5章13節が指し示すように、主なる神との関係においてどんなに心を熱せられていても、他の人々との関係においては冷静に事実を見据え、そこからすべての営みを積み重ねる道こそ、正気の道です。
若い人々が日常生活の中で節度や慎みを忘れないことが、正気なのです。何よりも終末の近いことを意識し、祈りつつキリストにある生活・生涯を送ること、これが正気の道です。
印象深いことは、マルコが「着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て」(15節)と描いている点です。当たり前のことを当たり前にすることがどんなにか大きな「正気」の恵みであるかを教えられます。
(3)正気になるために
①この場面では、豚二千匹ほどが犠牲になり、代価が支払われているわけです。それが現在の貨幣価値でどれほどであれ。「すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った」(17節)とあります。一人の人間が正気に返ることより、豚二千匹の方が価値ありとしたのです。何を大切にするか価値観の違いです(参照・マルコ14章3~9節)。
②私たちが正気になるためには、いつもそれなりに支払われるべき犠牲があるのです。正気に戻る人はそれを支払うことができないので、その人にとってはただの救いです。しかしそのために誰か他の人が代価を支払っているのです。
私たちのキリスト信仰こそ、私たちが正気に戻った姿です。そのために貴い代価が支払れた事実を決して軽く考えないように。パウロの勧めを、そのまま私たちの生活・生涯の旗印にするのです。この旗のもとに生き、死ぬのです。それが正気に戻された者の当然の歩みです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(Ⅰコリント6章19、20節)
[4]結び
(1)ルカの福音書15章11~32節
マルコ5章1~20節を通して、現代社会における「汚れた霊につかれた人」について考えるとき、もう一つの聖書箇所が助けになります。
それは、私たちが良く知るルカの福音書15章11節から32節、放蕩(ほうとう)息子の記事です。記事が教えている一つの面については、ルカ15章17~19節、「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』」を確認。
ここでは、マルコ5章1節以下での「汚れた霊につかれた人」の状態に当たる、放蕩息子の放蕩の実態に意を注ぎたいのです。
①本来父(神)のものを、自分のものと主張する(ルカ15章12節)。
②父のもとから離れて、本来父のものであるもの(恵み)を、自分もの、自分が勝手にできるものと考え違いをして、湯水のように無駄使いしてしまう。父の恵みを無駄にし浪費はするが、何ひとつ生産できないのです。父のものを湯水のように無駄にするとき、放蕩息子の回りに集まっていた人々は、恵みをことごとく費やし失われたとき、彼のところから離れ去るのです。
③豚が食べるものを食べたいと思う。動物との区別を見失う事態。
④根底の問題は、真の「父」を見失っている事実です。ここに立ち戻るほか解決の糸口はないのです。
(2)宣教とは
マルコ5章19節、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」に見る主イエスの命令に、20節、「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」の模範・モデルが明示するように、聖霊ご自身の内なる助けに支えられて、私たちの生活・生涯において私たちなりに応答して行く、やりがいがあり、また各自にふさわしい道、これが宣教です。
家族、親族、友人そして知人のため、私たちは祈り続けるのです。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。