実を結ぶ
マルコの福音書4章1節~20節
[1]序
今回の箇所は、教会学校の子どもたちもよく知っている、私たちになじみ深い種蒔きのたとえです。まず3章後半までとの結びを確認します。
「イエスの身内の者」(3章21節)と「エルサレムから下って来た律法学者たち」(3章22節)の誤解や曲解と鋭い対比で、「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(3章35節)と、主イエスが驚くべき恵みの宣言をなされている事実をマルコは描いていました。
その直後の4章1~20節の箇所では、「神のみこころを行なう」、みことばに聞き従い、実を結ぶ道を示しています。
全体の流れは、大きく二つに分けることができます。
前半は1節から9節で、主イエスが種蒔きのたとえを話される場面を、たとえの内容と共に実況放送のように伝えています。
後半では、十二弟子たちを含め人々のたとえの意味についての質問(10節)に対して、主イエスは11~13節に見る指摘をなし、続いてたとえの意味を説き明かしておられます(14~20節)。
[2]種蒔きのたとえそのもの(1~9節)
(1)主イエスの教え
「イエスはまた湖のほとりで教え始められた」(1節)、「イエスはたとえによって多くのことを教えられた」(2節)と繰り返し、主イエスが教えられた事実を強調している点を注意。
主イエスが何をなされたかと共に、主イエスが何を語り教えられたかマルコは記しています。この御業と教えの両面を描きながら、主イエスはどのようなお方か福音書を読む人々の目前にマルコは描き伝えているのです。
この点は、他の福音書記者も全く同じです。たとえば、マタイの場合、「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと(教え)を守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)。
主イエスご自身と主イエスの教え・ことばは、切り離せないのです。
(2)「よく聞きなさい」(3節)
最初に主イエスは教えの聞き方に焦点を絞っておられます。
この「聞く」ということばを3節に始まり、9節、12節、15節、16節、18節、20節と繰り返し、ご自身の教えの聞き方がいかに大切であるか強調なさる主イエスの姿をマルコは鮮明に描いています。
(3)二つの側面
3章の後半で、「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(35節)との驚くべき宣言が、「イエスの身内の者たち」(21節)の誤解や「エルサレムから下って来た律法学者たち」(22節)の悪意のある曲解の事実の背景の中でなされていました。
種蒔きのたとえにおいても、蒔かれた種が実を結ばない最初の三つの場合と、「実を結」ぶ最後の場合の両方、二つの側面を明示し、その上で「すると芽ばえ、育って、実を結び」と印象深いことばを重ね、たとえの頂点を描きます。
[3]たとえの説き明かし(10~20節)
(1)たとえが理解できない姿
主イエスのことばが語られていても、それが理解されない現実(10節、13節)が明らかにされています。この事態は、主イエスの弟子たちの問題でもあり(14~20節)、また私たちの現実の一面です。
(2)「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(14節)
種はみことばである、この指摘が説き明かしの中心です。15節、16節で2回、17節、18節、19節と繰り返しこのことばを用い、その重要性を強調する主イエスの姿をマルコは描いています。
初代教会では、このことばは宣教を意味する用語で、やはり繰り返し用いられています(参照・使徒の働き4章4節、6章4節、ガラテヤ6章6節、コロサイ4章3節、Ⅰテサロニケ1章6節、Ⅱテモテ4章2節)。
(3)20節
たとえを記述している中で8節が頂点であるように、たとえの説き明かしにおいても、20節がそうです。その中で、鍵(カギ)のことば・キーワード二つに、特に注目したいのです。
①「受け入れる」
このことばは、使徒の働きでの3回を中心に、この箇所に加え、新約聖書でさらに6回用いられています。それぞれの用いられ方や意味について簡単に見ます。
使徒の働き15章4節、「エルサレムに着くと、彼ら(パウロやバルナバ)は教会と使徒たちと長老たちに迎えられ」。ここでは、全身で人を歓迎し、迎え入れる意味で使っています。
使徒の働き16章21節、「ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております」。ここでは生活の仕方、生き方を左右するものとして自分の内に受け入れる意味で用いています。
使徒の働き22章18節、「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです」。パウロの主イエスについての宣教に人々が示す態度を表すため、このことばを用いています。
Ⅰテモテ5章19節、「長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません」。教会として公に受け止めることを表すため、このことばを用いています。
ヘブル12章6節、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」。ここでは、主なる神が愛する者を責任をもって本気で受け入れてくださる恵みを表すため、このことばを用いています。
以上さっと見ただけでも、みことばを「受け入れる」事実の意味の深さを教えられます。
みことばを受け入れるとは、主イエスご自身をザアカイのように喜んで家に迎え入れることです(ルカ19章5、6節)。そうです。父に迎え入れられた放蕩息子が、父の家で新しく生きるように(ルカ15章17節以下)、私たちの生活の仕方・ライフスタイルが聖霊ご自身により新しくされながらみことばを受け入れるのです。
②「実を結ぶ」
このことばが、以下の新約聖書の箇所で用いられている一つ一つの場合が興味深く、大切です。
マタイ13章23節
マルコ4章20、28節
ルカ8章15節
ローマ7章4、5節
コロサイ1章6、10節
本来種・みことばは、驚くべきいのち・力を秘めているのです。豊かな実を結ぶのは当然なのです。コロサイ人への手紙の箇所だけお読みします。
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」
[4]結び
聞く・聴従・シェマー。
みことばは、本来実を豊かに結ばせるものであればあるほど、聞き方が課題になります。神のことばである聖書の読み方を生活・生涯においてしっかり身につけたいのです。
少年サムエルに学ぶのです。参照Ⅰサムエル3章10節、「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた」。
イスラエルの第一の使命、参照申命記6章4節、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」。
詩篇の詩人のみことば信仰、詩篇119篇33節、「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう」。
みことば・聖書と私たちの関係、それはアンダー・スタンド(下に立つ、上でも横でもなく)→理解、みことばを食べ、それが身になる恵み。
最後に、ルカ8章15節をお読みします。「よく耐えて」に注意したいのです。
「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。