神の御心を行なう人
マルコの福音書3章20節~35節
[1]序
今回の箇所を、3章20~30節と31~35節に二分して味わいます。
二つの箇所は、実に鋭い対比。前半は、主イエスに対する家族・身内の無理解と律法学者からこの上ない誤解・見当外れの攻撃。
それに対し後半では、神のみこころを行なう者は誰でも主イエスの家族と、驚くべき宣言です。
[2]聖霊ご自身をけがす罪(20~30節)
前半をさらに20~27節と28~30節に分け、中心点に限り確認したいのです。
(1)第一段階の応答(20~27節)
21、22節には、主イエスに対する最高の悪意に満ちた攻撃。
これに対して、23~27節に見る主イエスの答えは、どんな組織も内輪で分裂が起これば、それは成り行かない、また強い者に対してはより強い者だけが勝利すると、一見平凡なものです。
(2)「聖霊をけがす者」(28~30節)
ところが28節以下に移ると、主イエスの反撃は、福音書全体でも稀(まれ)に見る激しいものへと一転します。ここでは、二つの点に限り注意。
①21、22節に見る、主イエスに対する悪意ある攻撃が、「聖霊をけがす」ことに外ならないと主イエスご自身は受け止めておられます。そうです、主イエスと聖霊ご自身とは切り離せない深い関係にある事実を、主イエスご自身が明確に示しています。
②「神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」(28節)に対して、「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」と主イエスは言い切られます。
ここで何より確かなのは、主イエスが聖霊ご自身を神とされている事実です。2章1~12節の記事において、律法学者の「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(7節)との攻撃に対して、主イエスは罪の赦しを宣言なさり、ご自身が真の人となられた真の神である事実を明示している場合と同じです。
主イエスは神であり、また聖霊ご自身が神であり、しかも神は唯一のお方であると新約聖書は宣言しています。この恵みの事実に立ち、父、御子、御霊なる三位一体なる神との言い方で、世々の教会は信仰の告白をなします!
[3]「神のみこころを行なう人はだれでも」(31~35節)
31節からの記事は、歴史を貫いて波紋のように広がり続ける内容を含む、驚くべきものです。
十二弟子の数を越えて、主イエスの弟子であるばかりでなく家族とされる人々の姿を描き、この記事を現に今読む私たち一人一人も「だれでも」と、その群れに加わるように招いてくれています。
(1)「神のみこころを行なう人」
①「神のみこころ」
イ)聖書に明示されている神のみこころ、基盤
いつでも、どこでも変わることのない、主なる神のみこころが聖書に明記されています。どれほど強調しても強調しすぎることがないほど、大切な基盤です。これを肝に銘じたい。落ち着いた実を結ぶ信仰生活を重ねて行くために、無くてならぬものなのです。
まず、すべて虚無的な考え方を根底から打ち破る、黙示録4章10、11節を。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」
万物の創造者が、また私たちの救い主なのです。このお方のご計画・みこころに従い、私たちはキリスト信仰へ招かれたのです。たとえばエペソ1章9~11節に明らかにされています。ここでは、11節だけをお読みします。
「この方(キリスト)にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです」
創造の恵み、救いの恵みのいずれにおいても基本は、私たちが何をなすべきかではなく、生ける神ご自身がみこころに従い何をなさっておられるかです。主なる神の御業を熟慮するとき、私たちに対する実際的なみこころが私たちのこころに静かに焼き付けられます。Ⅰテサロニケ4章3~6節や5章16~18節などに明らかに示されている、私たちの生活・生涯についての的確な指示です。では後者をお読みします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること(みこころ)です」
ロ)神のみこころと祈り
神のみこころが聖書において明記されている、その一つ一つを、また同時に全体を心に刻みつけ、生活・生涯において従い生きようとする、このとき神のみこころと祈りの深い関係に心を向けないわけには行きません。
何より第一は、主の祈りのあのことばです。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
宗教改革者の一人は、「地」の第一として、まず自分の心にと祈ったと伝えられています。私たちに強く訴えるものがありませんか。
②「神のみこころを行なう人」
さらに聖書は、神のみこころを人物をあげ、生きた模範に従うように私たちを招いてくれています。
イ)ダビデの場合
「彼はわたしの心にかなった者で、わたしのここころを余すところなく実行する」(使徒の働き13章22節)
ロ)パウロの場合
「私たちの先祖の神は、あなた(パウロ)にみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです」(使徒の働き22章14節)
(2)「だれでも」
ダビデやパウロのような人物だけではありません。「だれでも」と人間の築くあらゆる差別の壁(参照・ガラテヤ3章27~29節)を越えて、「だれでも」と選び、訓練し派遣するのは、あの十二弟子だけでない(3章13~19節)。弟子さらに主イエスの家族の範囲は一挙に広がるのです。同時に名目だけでなく、現実に神のみこころを行なう、祈りなくしては歩み得ない、本気の道です(参照・ローマ12章2節、コロサイ1章9、10節)。新しい牧会者ご夫妻は、この本気の道についての判断に直面しています。私たちはどうでしょうか。二階にあげて、ハシゴをとるようなこと、そんなことはしたくないのです。
[4]結び
ある出張の際、私が伝えようとしているメッセージは一言で言えば何かと明言する機会がありました。
私が答えたのは、Ⅰコリント15章10節、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」でパウロが言い切っているように、一方的な主なる神からの恵みの注ぎの事実。その恵みを無駄にしないで本気で応答する、この一途(いちず)な生活・生涯こそ、恵みであると、二重の恵みを伝えることこそ、私の使命と理解していると公言しました。
今回の聖書箇所も、私たちのうちに事実となっている恵みがいかに驚くべきものであるかを重ねて指し示しています。この恵みに応答したいと本気で決心するなら、聖霊ご自身の導きに深く信頼する以外に道は断じてないのです。
そうです。マルコの福音書味読を通し、日々の営みを、聖霊ご自身の導きを求め続けながら、重ねたいのです。
「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11章13節)
皆様のキリストにある生活・生涯において忘れ難い、静かなしかし深い聖霊ご自身のお取り扱い・経験をなさるときとなるよう祈ります。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。