罪の赦しの福音
マルコの福音書2章1節~22節
[1]序
以下のようにマルコの福音を読み進めます。
マルコ2章1節~22節 『罪の赦しの福音』
マルコ2章23節~3章6節 『安息の主』
マルコ3章7節~19節 『二つの役割』
マルコ3章20節~35節 『神の御心を行う』
今回は、マルコの福音書2章1節~22節に意を注ぎます。
[2]「罪を赦す権威を持つ」主イエス(1~12節)
前回は『福音-事実と教え-』について心に刻みました。今回は福音の内容の中心である、「罪の赦し」に心を傾けます。
ここでも、一つの実例が取り上げられています。この場面に登場する、中風の人、数人の律法学者、そして主イエスご自身のそれぞれについて見て行きます。
(1)中風の人
中風の人について、2、3のことを知ることができます。
①この方は、病で寝たきりの状態の中で、自分自身からか友人たちからか、いずれにしても病が直るようにと願いを持ち、その願いを主イエスに向けたのです。
②彼を担いで来た4人は、雇われてその仕事をしていた可能性を完全には否定できません。「イエスは彼らの信仰を見て」(5節)とあるように、この中風の人と信仰を同じにしていると主イエスから認められている事実から判断して、親しい友人であったと見るのが自然でしょう。
③困難に直面しても、非常手段または非常識と思われる方法をとってでも、主イエスの御前に行くまで歩みを進め、そこに止まり続けるのです。とにかく途中で止めないのです。止める理由など幾らでも彼は言えたはずです。しかしそうはしない。
(2)数人の律法学者
ここに登場する数人の律法学者についても、1、2の点を確認したいのです。
①「律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った」(6節)とあります。私たちは、心の中で語ることができるのです。口で実際話している以上のことを言っているのです。そして心の中で語ることが、文字通りものを言うのです。
②彼らは理屈を言っていました。その理屈の一面は、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」であり、それは全く正しいのです。
③深刻な問題は、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ」と、彼らが主イエスに対して判断し、断定している事実です。
中心点は明白です。主イエスは、自ら神として意識し、罪の救いの宣言をなし、救いの御業を成就なさったとマルコが伝える福音の道が正しいのか。それとも、本当はそうでないのに自分を神として、神をけがしているのか。
(3)主イエスご自身
この場面の核は、「子よ。あなたの罪は赦されました」(5節)とある、主イエスの罪の赦しの宣言です。罪の赦しとは、この恵みの宣言を受け入れることです。
①「子よ」との呼びかけの深さ。参照「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」(5章34節)。
②罪の赦しの宣言・ことばを信じ受け入れるとは、そのことばを語る人格に対する信仰にほかありません。そして主イエスに対する信仰は、主イエスのことばを信じ受け入れることから切り離せません。
③地上で罪を赦す、主イエスの権威(10節)は、主イエスのことばの権威を通して明らかにされます(参照・11節、14節、17節)。
この場面に見る、主イエスはどなたかをめぐる激突が、主イエスを十字架へとの叫びへと突き進んでしまったのです。(参照・マルコ14章64、65節、ヨハネ8章56~59節)。
[3]罪赦された罪人として生きる、新しい生活・生涯(13~22節)
この中風の方は、病を癒やされ、また罪赦されて、12節に見るように場面から去って行き、場面そのものが閉じられます。参照ルカ5章25節、「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った」。
では罪赦されたこの方は、その後どのような生活・生涯を送ったのでしょうか。確かに直接的には、何も記されていません。しかし13~22節の記事は、罪赦された罪人である彼の新しい生活・生涯がどのようなものであったかを教えてくれていると判断します。
(1)アルバヨの子レビの場合(13~17節)
上記の罪赦された罪人として生きる、その生活・生涯に焦点を絞り、2、3の点を確認したいのです。恵みの先手。すべては、「わたしについて来なさい」との恵みの呼びかけです。
①中風の人の場合も、彼や彼の友人たちの心に、恵みの神が働きかけてくださり、志を与え、実現へと導いてくださったのです(参照・ピリピ2章13節)。
②レビの恵みへの応答は、主イエスを自分の家に迎えるにとどまらなかったのです。彼は、さらに友人や知人をも自分の家に招いたのです。このように、表面的にはレビが主イエスと人々を招いているように見えます。しかし深い意味で、主イエスがご自身の食卓に、レビや彼の友人また知人を招いておられるのです。
③主イエスの食卓の交わりへ、罪赦された罪人が、自分の家族、友人や知人を招くのです。罪の赦しの広がり、福音の波紋のような広がりです。
(2)「新しいぶどう酒を新しい革袋に」(18~22節)
18~20節、花婿をめぐる譬。
21節、真新しい布切れと古い着物。
22節、新しいぶどう酒は新しい革袋に。これが結論、中心です。
[4]結び
(1)ロ-マ4章25節
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」
①「私たちの罪のために死に渡され」
主イエスの十字架の事実から、私たちの全体を見る、世界の全体を見るのです。
②「私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」
主イエスの復活の事実から、私たちの全体を見る、世界の全体を見るのです。これこそ、罪の赦しの信仰の深さであり、豊かさです。私たちは全生涯を通して、その豊かさを味わい続けるのです。
こうして聖書にしっかり根差す人生観、世界観が私たちのうちに静かに確立するよう祈りたいのです。
(2)キリスト者にとって友、友情とは
①キリストの友と呼ばれる本当に驚くべき恵み
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません」(ルカ12章4節)
「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15章14、15節)
②ダビデとヨナタンの場合のように(Ⅰサムエル18章1~4節)
この点についても、伊江島主僕キャンプの恵み。キリストにあって年若き時に友情が生まれ、生涯にわたり豊かな実を結ぶ土台が築かれるようにと祈り、努めました。私自身もそのような恵みの経験を与えられていますから。このキャンプの歩みを通して、この面でも励まされました。
(3)「新しいぶどう酒は新しい革袋に」、新しい生活・生涯(ライフスタイル)の確立
①聖霊ご自身の内なる教えにより、私たちの心に芽生えたキリスト信仰が、私たちの心から、私たちの知識、感情、意志、そして生活・生涯、さらに文化に豊かに結実することを求める、この喜びです。
②「時は金なり」の本当の意味。主日礼拝と月定献金の恵み
神の恵みを無にしないため、弱い私たちに与えられている、恵みの手段の大切な一つとして。
主日礼拝:すべての時間を主なる神からの恵みとして受け、管理への道。
月定献金:すべての収入を主なる神からの恵みとして受け、管理への道。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。