二つの役割
マルコの福音書3章7節~19節
[1]序
今回私たちが味わう3章7~19節を、7~12節と13~19節に分けることができます。
[2]「大ぜいの人々」(7~12節)
3章7~12節では、1章14、15節、「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』」と同じように、主イエスの御業・活動を大きく全体的に描いています。
(1)7節の「それから」(文字通りには「そして」)は、直前の6節、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた」に見る、主イエスに対するパリサイ人たちやヘロデ党の者たちの敵意との対比を示しています。
6節に見る十字架の影のもとで、なおも主イエスは歩みを続けます。
(2)3章7~12節をさらに二分すると
①7~10節
ここでは地理的な広がりを明らかにしています。大ぜいの人々が、特にイドマヤ(異邦人の混在する場所)、ツロやシドン(異邦人の町)から集まっている事実に注意。
主イエスご自身が、これらの地を訪れました(1~6章ガリラヤ、7章ツロ、シドンとデカポリス、10章以下ヨルダンの彼方とエルサレム)。それだけでなく、主イエスの復活後、弟子たちもこの地域で宣教活動したのです。主イエスの福音は、諸民族へ宣べ伝えられるべきと初めから明らかにされています。参照13章10節、「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」。14章9節、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」。
②11、12節
「汚れた霊ども」。悪の力に圧迫されている人々の間に、現に働く主イエスの御力をマルコは鮮明に描きます。
[3]十二弟子、彼らの二つの役割(13~19節)
以上の背景の中で、十二弟子を主イエスは選ばれます。
まず13節の「呼び寄せられた」と、主イエスが先手を取られている事実に注目。マルコは、この言葉を繰り返し用いています(3章23節、7章14節、8章1、34節、10章42節、12章43節)。
また14節、「そこでイエスは十二弟子を任命された」(「任命する」は、文字通りでは、「創造された」)とあります。さらに16節で、「こうして、イエスは十二弟子を任命された」と繰り返しています。このように、十二弟子の任命、派遣を初めから終わりまで導く主イエスの権威を、マルコは特に強調しています。
主イエスは、十二弟子たちを、二つの役割を担うため選ばれました。
(1)「彼らを身近に置き」
「ご自身のお望みになる者たち」。主イエスのもとに集められた人々は、烏合の衆ではないのです。またどんな才能をどれほど持つかとの物差しで選ばれた人々でもありません。彼らは、主イエスの御心のうちに選ばれたのです。しかも第一の役割は、彼らがどの仕事をどの程度するかにかかわるものではないのです。
「彼らを身近に置」く、これが、彼らを選ばれた第一の目的なのです。主イエスとの人格的な関係を心から喜びとする生活・生涯が、彼らにとって何より大切なのです。これが、主イエスに従う(8章34節)中で大切な点です。この恵みの立場についてとてもはっきり教えてくれる聖書の箇所として、ヨハネが伝える主イエスのことばを思い出します。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15章15節)
(2)「彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威」
十二弟子は、何よりも、主イエスとの人格的な交わりを中心にすべく選ばれ、また同時にはっきりとした使命を果たすため召し出されたのです。
①「福音を宣べ伝える」
主イエスは、すでに1章38節に見たように、ご自身の宣教の使命を初めから明らかにされていました。その使命を弟子たちを通して実践するのを良しとなされたのです。
弟子たちが宣べ伝えるべき福音の内容は、主イエスご自身が宣べ伝える福音(1章14、15節)に基づくのは明らかです。マルコは、「福音を宣べ伝える」との言葉を、彼の福音書全体を一貫して繰り返し用いています(1章4、7、14、38、39、45節、3章14節、5章20節、6章12節、7章36節、13章10節、14章9節)。この事実からも、福音宣教がいかに大切であるかをマルコが確信していたのは明白です。
②「悪霊を追い出す権威を持たせるため」
弟子たちが直面すべき悪霊については、5章1節からのゲラサ人の地での出来事の中に明らかにされています。詳しくは、その箇所を取り上げる際に見たいのです。ここでは一点だけに絞り確認します。
そこに登場する、「悪霊につかれた人」がいやされたときの姿を、「着物を着て、正気に返ってすわっている」(5章15節)と描いています。悪霊は、人間を本来の姿から的外れな状態へとそらしてしまうのです。このような人々を本来の姿、本当の姿へと戻す権威を十二弟子は委ねられたのです(6章7、13節)。彼らは、自分たちが弱いとか小さいとかだけを見ることは許されない。そういう者であるにもかかわらず、「権威」を委ねられているのです。そして戦いの相手は明らかです(参照・エペソ6章10節以下)。
しかし、彼らの権威は、どこまでも委ねられたものであり、彼ら自身のものではないのです。しかもその権威の特徴は明らかです。10章45節、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。
十二弟子たちは、主イエスと共にある人格的な交わりを中心とした生活において、使命を果たす訓練を受け、派遣されたのです。この弟子たちのあり方を、やはりヨハネは興味深く描いています。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハネ15章16節)
[4]結び
十二弟子たちについて言われている、「権威を持たせる」(15節)、「任命」(16節)は、他の一般の弟子たちにも通じます。
そして私たちも、この恵みの事実から自分自身を理解する必要があります。小さい者・弱い者であるのは確かです。しかしそれがすべてではない。パウロと共に私たちも明言すべきです。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4章7節)
私たちは小さく弱いものです。しかしその私たちにとって、ヨハネ15章15、16節、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」も、そのまま事実なのです。
ですからみくびってはいけないのです。私たちがみくびられるのは、自分で自分をみくびっているからではないでしょうか。主イエスにあっては、この私はたいしたことがないなどと安売りしてはいけない。
参照Ⅰペテロ13章14、15節、「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」。
驚くばかりの恵みに支えられ、日々毅然(きぜん)と生きるのです。キリスト信仰は、真に公のことなのです。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。