なおも前進
マルコの福音書6章1節~13節
[1]序
マルコの福音書6章6節の前半と後半の対比に注意し、今回の箇所を1~6節前半・「つまづきと不信仰」と6節後半~13節・「主イエスも弟子たちも」と、二つに分けて味わいます。
[2]つまづきと不信仰(1~6節前半)
4章35~41節の記事において、「信仰がないのはどうしたことか」と、弟子の不信仰を主イエスが指摘なさっています。
上記の記事に引き続く5章を前回味わった際、ヤイロや長血をわずらう女、さらにヤイロの娘の信仰について私たちは注意して来ました。
この6章では、「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(5、6節)と、郷里の人々の不信仰に対する主イエスの姿をマルコは描いています。以下のマタイの記述と比較すると、マルコの率直さがここでも浮き上がります。
「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」(マタイ13章58節)
(1)「こうして彼らはイエスにつまずいた」(3節)
ナザレの人々は、2、3節に見るように、主イエスの教えと御業のただならぬことを理解したのです。
また3節で彼らが指摘していることもみな事実です。主イエスの教えと御業に対する理解と主イエスについての事実を知りながら、「こうして彼らはイエスにつまずいた」(参照・マルコ4章17節、14章27、29節)とマルコは明言しています。
まことに、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはでき」(Ⅰコリント12章3節)ないのです。
(2)「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(6節)
当然信仰が期待されるところに、弟子たちの不信仰(4章35~41節)や郷里の人々の不信仰の事実は、私たちへの警告です。
同時に、主イエスが驚かれる記述は多くない中で、マタイ8章10節には、「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません』」(マタイ8章10節)とあり、深い慰めを受けます。
[3]主イエスも弟子たちも(6節後半~13節)
6節を注意したいのです。新改訳は、他の幾つかの訳と同様、わざわざ二行に分けて訳しています。前半は「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」と、5節までの成り行きに対する主イエスの判断として5節までに結びつけています。
後半は、「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた」と、5節までと結びつけず、どちらかと言えば7節以下に関連づけ訳しています。
ここで「それから」と訳されていることばは、「そして」(カイ、英語のandに当たる)と訳されるのが普通です。ところが、6節前半までと6節後半からの内容が、「そして」とつなげるのでは自然でないのです。そこで、「それから」と苦心の訳がなされています。私は、ここでも、そう訳すべきと判断します。
なおこのように、「カイ」を挟んで、その前と後が対比の関係になる場合、「カイ」を、「しかし」と訳する場合もあります。
以上のことごとを考え併せ、ここでは、弟子の不信仰や郷里での不信仰にもかかわらず、「なおも前進、イエスは近くの村々を教えて回られた」(6節)との視点から、主イエスの宣教と弟子たちの宣教活動を検討したいのです。
(1)「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた」(6節後半)
厳しい現実に直面なさりながら、怯(ひる)むことなく、「近くの村々を教えて回られる」主イエスの姿は実に印象的です。
12節以下に見る十二弟子の派遣に先立ち、主イエスご自身が宣教活動をなさっているのです。ご自身が実行なさらないことを、主イエスは弟子たちに教えたり命令したりはなさらないのです。参照、主の祈り、弟子に教える場合(マタイ6章7節以下)とご自身が祈られる主の祈り(マタイ26章36節以下)の密接な関係。
(2)十二弟子の備えと派遣(7~13節)
主イエスご自身が、「なおも前進」なさり、宣教活動を継続なさっている姿に私たちは深く励まされます。この「なおも」の主イエスの愛こそ、私たちがいま御前に立つことが許されている恵みにほかなりません。
しかしそれだけではないのです。主イエスの宣教の働きに弟子たちも召し、整え、派遣なさるのです。弟子たちや私たちに対する愛と信頼は、ご自身の働きに私たちを参与させてくださることのうちに最もはっきり示されています。
◆全能の神が、ご自身の働きに愛と忍耐をもって人間を参与させる恵みの好例は、神の言葉である聖書の成立。
一度にすべてではなく、実に驚くべき年月と人々を注いで神のことば・聖書は人間によって人ことばとしての側面を持ちつつ成立(参照・Ⅱテモテ3章16、17節、ヘブル1章1節)。
①整え
十二弟子たちの任命と役割については、私たちはすでに見て来ました(3章13節~19節)。
ここでは、十二弟子の実際の派遣に当たりなされている整えと派遣そのものを直接描いています。幾つかの点に限り確認します。
イ)「ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」
弟子相互の協力(複数牧会、役員会中心の牧会に対する示唆)と主イエスにより与えられた権威(主僕リーダー)、この両立が大切な鍵。
ロ)福音の伝達の経済的必要と満たしの原則
「イエスは、自分の貧しい弟子たちを乞食にしたのか? 主に仕え、主の使者として来る者は、乞食ではない。彼らは、送り出されて行った先の人々を豊かにする。だから彼らは、無償で仕事をおこなわず、働きに対して報酬を受け取る労働者や、だれにもはばかることなく自分の収穫を楽しむ農夫に似ている……自然が必要とする食料の世話をする人々よりも、もっと高い程度で、彼らは与える人々である。……イエスの使者たちがそばにいることによって、他の人々が蒙る負担など、まったく比べものにならないのである」(A・シュラッター)。
②派遣と働き
十二弟子の働きについて、三つの要素をマルコは明記しています。
イ)「悔い改めを説き広め」
ロ)「悪霊を多く追い出し」
ハ)「大ぜいの病人に油を塗っていやした」
この中で、特に病の癒やしに限り、幾つかの点を注意したいのです。
主なる神は、私たちの健康を喜ばれる、参照Ⅲヨハネ2節、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」。それゆえ、健康管理を大切に、全力で委ねられた使命を果たして行くために。
それでも病にかかった場合。率直な癒やしのための祈りをあきらめないで。しかし病気がすべて、癒やしがすべてではない事実を認め続ける必要があります。
病人と言うとき、病ではなく、人が中心なのです。病のときでなければ、見えて来ないものがあり、病を通し人間として成長されている方々の存在、参照・詩篇119篇71節、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。
[4]結び
「なおも前進」なさる主イエスに従う者の一人として、私たちはパウロの生活・生涯を覚えます。聖書の与える忍耐と励ましにより、希望をもって、「忍耐と希望の神」に祈り進む、パウロのことばに心を傾けたいのです、参照ローマ15章4~6節、「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。