だれでも自分の思い通りに生きたいと願っている。自分の「想定内」で生活したいと思っている。だから、自分の思い通りいかない「想定外」の事態に遭遇すると、焦ったり、恐れたり、パニックになったりする。
でも、なんでも自分の思い通りにいく生活が、本当にいいのだろうか。自分で目標を設定して、行動計画を立てて、がんばって達成していく。一つの目標を達成したら、次の目標に向かってまい進する。最後には自分の最高の目標に到達して、人々からほめられ、自分も満足してこの世を去っていく。これが一般に理想とされる人生かもしれない。
世界の歴史上、もっとも自分の思い通りに生きた人は、誰であろうか? 旧約聖書に出てくるダビデの子、エルサレムの王、ソロモンではないだろうか。最高の権力と名声、最高の知恵と知識、最大の富と財産、最大の神殿建設と公共事業、大勢の妻とそばめ、多彩な趣味……。
しかし、それらすべてを手にしたソロモン王は、自分の書いた「伝道者の書」で、なんと言っているだろうか。「空の空、いっさいは空である」と言っているではないか! 「むなしい、むなしい。ああ、なにもかも、まったくむなしい」と言っているのである。
神の特別な寵愛を受けたソロモン王であったが、彼の最後は偶像礼拝に堕ちて、神を大いに失望させてしまった。ソロモンの死後、イスラエルは二つに分裂し、バビロニアに捕囚として連れ去られ、やがては世界に離散する憂き目にあったのである。
すべてが自分の思い通りにいくなら、まことの神は必要でなくなってしまうのだ。しかし、しょせん、万物の創造主なる父なる神との豊かな交わりのない生活は、「空の空」なのである。
預言者エリヤは数々の試練を通過し、最後は「神の火の戦車」に運ばれて天に昇って行った。あなたの前に降ってわいたように突如として立ちはだかる試練や問題は、あなたを神に運んでいく、「神の火の戦車」なのである。物事が思い通りにいかなくなって初めて、あなたは真剣に神の助けを求めざるを得なくなるからだ。
「宇宙万物を創造し、所有し、支配している全知全能の愛の神を信じたら、すべての物事はトントン拍子にうまくいくに違いない!」 洗礼を受けた当初、ぼくはそう思っていた。「アラジンの魔法のランプ」のように、祈ったことが簡単にかなえられて有頂天になったこともある。
そのうちに、これでもかこれでもかと、試練や難問が襲ってきた。「主よ、助けてください!」「主よ、なぜですか!」 心の中で叫んで、長い間もがいてきた。そして今なお試練や難問はつづいている。
だが、試練と難問に攻め立てられて、ぼくと神・イエスとのすばらしい関係が深まってきたことは否定できない事実である。目に見えるこの世の一時的で有限の世界から、目に見えない神の永遠で無限の世界に、ぼくを運んでくれたのは、試練と難問という「神の火の戦車」だったのである。
聖書は実に、「意外性」に満ち満ちている。「想定外」の事態に満ち満ちている。人が書いた本のように、論理的にわかりやすくは書かれていない。創世記の天地創造から始まり、黙示録の新天新地創造に終るまで、想定外の奇想天外なストーリーの連続である。何度読んでも完全にはわからないけれども、いつ読んでも新しい発見がある。
聖書を読んでいると、「意のままにならないからこそ、生きることはすばらしい!」ことがわかってくる。「意外性」が大きければ大きいほど、「想定外」の事態が起きれば起きるほど、その事態を生き抜くために、ぼくたちは必死に神に助けを求め、神の世界に入って行くことができるからである。永遠の命の展望と、無限の愛の広がりと、無尽蔵の富の宝庫は、イエスとの交わりの中に隠されているのである。
◇
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」