主のあわれみは尽きない
哀歌3章19~40節
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいにやすらぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章29、30節)
[1]序
今回は、少し長い箇所です。哀歌3章19~40節を味わいます。この箇所は、哀歌の中心と見ることができます。哀歌の詩人の信仰がはっきりと言い表されています。
1章から3章前半までと鮮やかな対比をなしています。しかし両者は、対立したり矛盾したりするのではない事実、前回見た哀歌3章18節と21節また24節との関係からも明らかです。
[2]待ち望みの恵み(3章19~24節)
生かされている現実が、いかにも厳しいものである中で、哀歌の詩人は、「待ち望む」恵みを経験し、その恵みについて証言しています。
(1)19~21節
「思い出」(19節)、「思い出して」(20節)と、哀歌の詩人は、受けた苦しみについて深く思い巡らしています。しかしこのようにして目を注ぐ自分自身の中には、「ただこれを思い出しては沈む」とあるように、頼るべきものは何もないのです。
このような現実の中で、「私は待ち望む」と、自分自身ではなく、目を上げ主なる神ご自身に心を開くのです。
(2)22節
「私たちが滅びうせなかったのは」、イスラエルの民がバビロン捕囚・神のさばきを経験する中でなおも支えられている事実。それは、まさに「主の恵み」によると哀歌の詩人は明言します。
「主の恵み」、それは契約の神のご真実であり、決して変わることのない御心です。
(3)23、24節
①23節
「それは朝ごとに新しい」、この恵みの事実を、預言者イザヤは求めています。彼にとり、それがいかに大切であるか教えられます。
「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください」(イザヤ33章2節)
哀歌の詩人は、見上げるべきものにしっかりと目を注いでいます。「あなたのご真実」、詩篇36篇5節、出エジプト34章6、7節。信仰とは、一言で言えば主なる神のご真実を仰ぎ望むこと。
②24節
「主こそ、私の受ける分」「主はまたアロンに仰せられた。『あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である』」(民数記18章20節)
約束の地に入ったイスラエル各部族が相続地を与えられる中で、祭司アロンは土地は与えられなかったのです。
しかし主なる神ご自身が、受けるべき相続地となってくださったのです。主なる神から受ける何かの恵みではなく、主なる神の民とされている事実、この主なる神との関係そのものが恵みなのです。
[3]主はいつくしみ深い(3章25~40節)
(1)25~30節
「主はいつくしみ深い」(25節)。これこそ、哀歌の詩人が主なる神がどのようなお方であるかを伝えようとするとき、彼の心から溢れる信仰の告白なのです。これは、彼自身が「主を待ち望む者」、「主を求める者」としての経験を通して受け止めた確信です。それですから、「主の救いを黙って待つのは良い」(26節)と勧めることができるのです。
さらに他の箇所では、打ちのめされた者について否定的な意味で用いることばで信仰の確信を言い表しています。「くびきを負うのは良い」(27節)の「くびき」は、「私のそむきの罪のくびき」(1章14節)とあるように、普通良くないものを表しています。バビロン捕囚の経験の中で、文字通りくびきを負わされたと考えられます。
「ひとり黙ってすわっているがよい」(28節)についても、1章1節に見た、「ひとり寂しくすわっている」との表現は、バビロン軍に徹底的に痛めつけられたエルサレムの姿を描く否定的な表現です。
さらに、「口をちりにつけよ」(29節)は、3章16節に見るように、まったくの無抵抗、服従を示す動作です。しかしこの動作が、主なる神の御前におけるへりくだりを表しています。
(2)31~33節
この3節の文頭には、「なぜなら」と理由を表すことばがもともと用いられており、27~30節に見る、普通なら否定的な辱めを意味することを忍耐して続け、主なる神の豊かな恵みにあずかる、確かな根拠を繰り返し強調しています。
「(なぜなら)主は、いつまでも見放してはおられない。(なぜなら)たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。(なぜなら)主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(31~33節)
(3)34~36節
なぜこんなことがと言わざるを得ない、無法な仕打ちが行われている現実に直面する中でも、なお「主は見ておられないだろうか」(36節)と、主なる神の恵みに対する信頼と希望をもって、哀歌の詩人は取り組んでいます。
(4)37~40節
「主が命じたのでなければ」(37節)。みことばをもって万物を創造なさった(創世記1章3節)、創造者なる神への信仰に、哀歌の詩人は堅く立つのです。さらに「わざわいも幸いも」(38節)をも統治なさるお方を見上げて、深い慰めを与えられています。すべてのことを益にしてくださることを信じる信仰に通じるものです(ローマ8章28節)。
このように導きを受ける中で、「自分自身の罪」(39節)とあるように、単に苦悩ばかりでなく、罪の自覚を哀歌の詩人は取り上げ、「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」(40節)と、悔い改めの道を進みます。
[4]結び
「主こそ、私の受ける分」、この恵みを、新約聖書においてより鮮明に私たちは教えられます。ローマ8章15節をお読みします。
「あなたがたは、・・・子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8章15節)
「・・・生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた・・・」(ガラテヤ1章15、16節)
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。