私の目は涙でつぶれ
哀歌2章11~22節
「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている」(哀歌2章19節)
[1]序
哀歌2章の後半、11~22節に焦点を合わせます。
[2]エルサレムの破壊を目の前にして(2章11~17節)
(1)2章10節から2章11節へ
10節までの主題の一つは、1~5節に見た「御怒り」でした。ところが、11節以下では、エルサレムの破壊に直面した、哀歌の詩人の嘆き悲しみを率直に言い表しています。
10節では、「シオンの娘の長老たち」が、エルサレムの現状を前にして、深く悲しみ沈む様を描いています。
「地にすわって黙りこみ、頭にはちりをまき散らし、身には荒布をまとった」
しかし彼らがどのようなことばをもって何を嘆いたのか、ここには記されていません。彼らのことばにすることの出来なかった嘆きを、11節以下に見るようなことばで哀歌の詩人は言い表しています。
(2)エルサレム包囲によりもたらされる苦悩と悲惨(11~13節)
①悲しみの深さを哀歌の詩人は、からだの一部を表すことばを重ねて用いて強調しています。
「私の目は涙でつぶれ」
「私のはらわたは煮え返り」
「私の肝(きも)は、・・・注ぎ出された」
②エルサレムの城壁内に閉じ込められた人々の悲惨な状況の影響は、一番弱い立場にある幼子の上に集中されてしまいます。
「幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている」(11節)。「穀物とぶどう酒」に代表される、蓄えられた食物を彼らは求め続けます。しかし、その求めは空しく、「母のふところで息も絶えようとしている」のです。
このような幼児が直面する悲惨な様について、哀歌の詩人は、特別に注意を払い、次の2箇所で繰り返し描いています。
2章19~21節
4章4節
③シオンの惨状をことばに表現することによって、なんとか慰めようとするのです。しかしシオンの状態のあまりのひどさに、哀歌の詩人は今までの歴史上のことごとにも、自然界の中にもたとえを見つけることができないのです。
そうした中で、「あなたの傷は海のように大きい」(13節)と、ただ一つ、海の広さ(参照イザヤ54章9節)をもって、シオンの有り様をやっと言い表せるばかりです。しかしそれでも慰めることも、また癒やすことも出来ない事実を確認するだけです。
(3)預言者、道行く人そして敵(14~17節)
①このシオンの状態を前にして、哀歌の詩人は、その原因を指摘します。悔い改めを妨げる偽預言者がなしたこと、なさなかったことを明らかにします。
まず彼らがなしたことを、2回繰り返し指摘し強調します。
「むなしい、ごまかしばかりを預言して」
「むなしい、人を惑わすことばを預言した」
その上、語るべきことを語らなかったのです。「あなたの繁栄を元どおりにするために、あなたの咎をあばこうとせず」。これは、まさに、エレミヤが直面した事態です。エレミヤ14章14、15節。
②エルサレムの苦しみに対して、「道行く人」(15節)も「敵」(16節)もあざけりのことばを浴びせます。
しかし哀歌の詩人は、「主は企てたことを行ない、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた」(17節)と、事柄の中心を見ています。
[3]苦難の中での祈り(2章18~22節)
(1)祈りの呼びかけ(18、19節)
①「シオンの娘の城壁よ」(18節)。2章7、8節で特に注意を払っていた「城壁」に対して、ここでは人間であるかのように呼びかけ、実際には城壁の中にいる人々に訴えています。
本来人々を守るべき城壁が、その役割を果たすことが出来ず、助けを求めることを指摘することにより、直面している事態がいかに深刻なものであるか明らかにされています。
②「昼も夜も、川のように涙を流せ」と、深い悲しみの中から祈りがなされるように、哀歌の詩人は訴えています。
祈りの中心は、幼子のためです。「あなたの幼子たちのために祈れ」(19節)。
(2)祈り(20~22節)
①詩人の訴えに応答して、エルサレムの主なる神に対する祈りが記されています。その内容は、直面している惨状を、主なる神が「ご覧ください。顧みてください」(20節)と訴えるものであり、18、19節の祈りに対する訴えに答えるものです。
「祭司や預言者」の虐殺を取り上げているのは、1章19節に通じます。しかし特別な人々ばかりでなく、「幼い者も年寄りも道ばたで地に横たわり、私の若い女たちも若い男たちも剣に倒れました」(21節)と、全住民に災いが降りかかって来る様を訴えています。
しかし訴えの中心は、ここでも「幼子」(20節)であることは明らかです。
②この祈りにおいても、直面している惨状が、単にバビロンの軍勢が強力であることが原因でないことを明らかにしています。
「あなたは、例祭の日のように、私の恐れる者たちを、四方から呼び集めました」(22節)
彼らは、警告を受けていたのに、それを無視して、このような結果を招いてしまったのです。参照申命記28章15節以下。
[4]結び
哀歌の詩人は、直面する悲惨な状況を前に祈りを訴えています。その祈りの内容が、幼子を中心としている事実は、実に印象的です。私たちの祈りも、幼子のための祈りを中心とすべきことを教えられます。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。