ああ、主はシオンの娘を
哀歌2章1~10節
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(ローマ3章25、26節)
[1]序
今回は、哀歌の1章から2章に読み進め、2章1節から10節を見たいのです。
[2]主の御怒り(2章1~5節)
(1)哀歌1章1節から11節では、シオン(エルサレム)を、哀歌の詩人が実況放送をしているかのように描いている事実を注意しました。紀元前586年のエルサレム陥落、バビロンの捕囚の出来事を生き生きと描いている様を見てまいりました。
そして1章12節から22節では、私・シオン(エルサレム)自身が語っているように描かれている点を注意し味わったのです。特に、1章9節後半の主なる神への祈りの言葉に注意しました。
「主よ。私の悩みを顧みてください。/敵は勝ち誇っています」(1章9節後半)
「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを/よく見てください」(1章11節後半)
また私シオン(エルサレム)が自ら語っている1章12節以下の言葉の中で、突然シオン(エルサレム)を実況放送のアナンサーの語り口で描いている17節も注意しました。その中でも、「主は仇に命じて、/四方からヤコブを攻めさせた」は、2章1節以下理解のため大切な鍵です。
(2)主なる神ご自身の視点から
「ああ、主はシオンの娘を」(2章1節)に見るように、哀歌の詩人は深い思いをもって語り始めています。そしてこれに次ぐ5節までの箇所では、「主は仇に命じて、/四方からヤコブを攻めさせた」(1章17節)が示すように、紀元前562年のバビロン軍によるエルサレム破壊の背後に、主なる神ご自身の御意志があったと指摘、出来事の真の理由を示しています。
①1節では、「御怒り」を2回、続いて3節でも繰り返し用い、強調しています。この点を注意したいのです。
「ああ、主はシオンの娘を/御怒りで曇らせ」(1節前半)
「御怒りの日に、/ご自分の足台を思い出されなかった」(1節後半)
「燃える怒りをもって、/イスラエルのすべての角を折り」(3節)
②「御怒り」と関係深い、「憤り」、「憤る」も、2節と4節で繰り返し用い、強調しています。
「ユダの娘の要害を、憤って打ちこわし」(2節)
「シオンの娘の天幕に/火のように憤りを注がれた」(4節)
③さらに主なる神とイスラエルの関係について、「敵のように」との譬えを、やはり2回繰り返し、強調しています。
「主は敵のように、弓を張り」(4節)
「主は、敵のようになって、/イスラエルを滅ぼし」(5節)
主なる神の御怒りは、主なる神のきよさや義と深く関係します。主なる神の愛と共に、創造者なる神の人間に対する関係において、基盤です。
イスラエルの民がどのようになっても、無関心であるようなお方ではないのです。例えば、イスラエルの民は、荒野の旅において、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝む罪のために、主なる神の怒りを受ける事態に直面しました。参照出エジプト32章8、9節。
[3]聖所と城壁(2章6~10節)
6節から10節では、聖所と城壁と、神殿の中心と神殿を取り囲む確かな守りに焦点を絞り、紀元前586年の出来事の深刻さを描きます。
(1)聖所にまで至る段階
①「ご自分の幕屋を投げ捨てて、/例祭の場所を荒れすたらせた」(6節)
②さらに、「主はシオンでの例祭と安息日とを忘れさせ」(6節)と続けています。
③そしてついには、「主は、その祭壇を拒み、聖所を汚し」(7節)と、中心点を描きます。
(2)城壁
このように神殿の内部へと指摘が進む一方で、神殿を囲む城壁についても目を注いでいます。
①「その宮殿の城壁を敵の手に渡された」(7節)と、敵の攻撃の背後に、主なる神の意図を見ています。
②「主は、シオンの娘の城壁を荒れすたらせようと決め」(8節)。
エルサレムの陥落について、エレミヤは、以下のように描いています。
「カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした」(エレミヤ39章8節)
「(バビロンの王ネブカデレザルに仕えていた)侍従長といっしょにいたカルデヤの全軍勢は、エルサレムの回りの城壁を全部取りこわした」(エレミヤ52章14節)
③「塁と城壁は悲しみ嘆き」(8節)と、城壁が取りこわされることがいかに悲惨なことであるか、「悲しみ嘆き」と城壁そのものが生きており、感情を持っているかのように描いています。
[4]結び
エルサレム陥落、バビロン捕囚は、単に強い国が弱い国を飲み込んだというのではない、主なる神に対するエルサレムの罪の関係で、哀歌の詩人は深く理解。
しかしそれがすべてではないのです。バビロン捕囚となった人々が、帰還し、神殿の再建の喜びのメッセージを伝える者の声についてです。イザヤ40章9節に注意したいのです。
「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ」
この「良い知らせ」こそ、福音です。ローマ3章25、26節が明示するように、主イエスにある罪の贖いを指し示すものです。私たちの罪の贖いとなってくださった、主イエスの恵みを改めて感謝したいのです。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。