神に期待する時に必ず恵みが与えられます。一人でゲームをしていれば幸せというのは要注意。人は、人との関わりなしには幸せになれません。家族や友と喜びをもって過ごす時に祝福されるのです。
今日の箇所は、聖書の中で一番有名な御言葉です。それは、この言葉の意味がまさに聖書のメッセージそのものだからです。どのようなことが書かれているか見ていきましょう。
1.神がなされた最大の出来事がある
聖書の最も中心的なことは、イエスのご生涯です。そして、イエスのご生涯の中で一番大切な出来事は十字架の死です。
癌が進行して、神経や血管に絡みつき、癌と一緒にそれらを取り除くと命を失ってしまうので手術ができない、といった話を聞いたことがあるでしょう。同じように、私たちの罪は、心や魂の細かいひだの部分にまでしみ込んでいるのです。時には、自分は結構よい人間だと思うこともあるでしょうが、人を悪く思ったり、ふと悪いことを考えてしまったり、命そのものにまで罪や悪の力が入りこんでいると思い知ることがあるでしょう。私たちの罪を完全に断ち切るためには、死をもって取り除く以外にないのです。
そんな私たちの身代わりに、イエスが死んでくださり、私たちの罪を取り除き、イエスご自身の聖い命を与えてくださったというのが、イエスの十字架の意味です。神はそのひとり子を与えるほどにこの世を愛し、この最大の出来事を成就されたのです。それは事実として起こった出来事であることを知り、それを間違いなく自分自身のものとして受け止めたいのです。なぜなら、イエスを救い主として受け入れる以外に、私たちに救われる道はないからです。
神様からのこの働きかけを受け止めましょう。
2.罪に対する傾向を認めて神に立ち返る
18節からは、神の裁きについて書かれています。神は信じる者は救うが、信じない者には罰を与えるんでしょうと言われる方がおられますが、神は、愛をもって私たちを救おうとしているのです。問題は、私たちの側が神の救いに入ろうとしないことにあります。神は度量の狭い方ではなく、私たちを常に光に導いておられます。私たちの方が神の救いの領域に入らず、神の愛を拒絶しているのです。闇を好み、自分を変えたくないと言って、自ら裁きを選び取っていることを知りたいのです。
神はすでに御子をお与えになり、救われる道は私たちに与えられているという事実があるのですから、闇ではなく光を選び取ることです。ごく普通の人々による殺人事件のニュースを聞く時、誰の心の中にも闇があり、それを放置すると、とんでもないことになると思わされます。光の世界に入りましょう。イエスは自分のために与えられたと受け止める時、まだ天国に行っていなくても、救いを確信することができます。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。