聖書によれば、イエスを信じる者はキリストの兵士である。キリストの兵士の役割はなんだろうか。罪に縛られて苦悩している人々の心の中に神の愛をそそぎ、不正に満ちて混乱している社会の中に神の正義を実現するために戦うことではないだろうか。具体的には、敵に捕らわれて奴隷にされている人々を救い出して、イエスを信じる神の子とするために、敵と命をかけて戦うことである。
敵は一人ではない。少数でもない。狡猾かつ強力なサタンと彼が率いる悪霊の大軍である。サタンや悪霊に奴隷のように支配されている人々が敵として使われることもある。サタンとその軍勢は、隊(チーム)を組んでキリストの兵士を攻撃してくる。
だが、キリストの兵士も一人だけで戦うのではない。イエス・キリストを総司令官とする天使の軍団とキリストの兄弟姉妹たちと共に戦うのである。全知全能の総司令官・キリストの指揮に従って戦えば必ず勝利することができる。
しかし、多くのイエスを信じる者はそれを知らないために、やすやすと敵の罠にはまって負けてしまう。敵の作戦と手段は、キリストの兵士同士の分争と孤立化、この世の魅惑への執着心の強化、不信仰による恐れと高慢と嫉妬心の増長である。
敵との戦いは真剣に戦えば必ず勝てる。でも、戦わないで楽をしていれば必ず負けてしまう。なぜなら、敵はいつも虎視眈々と食いつくすべき獲物を求めて探しまわっているからである。
戦いには苦難と試練がつきものである。聖書には、「苦難や試練を非常な喜びとせよ」と書かれている。
なぜなら、苦難や試練によってどんなことにも忍耐できるようになるからである。キリストの兵士の忍耐力こそが敵が一番恐れるものである。敵が攻撃すればするほど、イエスを信じる者がますます強い兵士になって、反撃してくるからである。
キリストの兵士は戦えば戦うほど神の力を得て強くなっていく。だから、戦いを止めて楽をしている時が最も危険なのである。兵士は戦っていない時は、極めて弱いものである。
ダビデがそのモデルである。戦いに勝ち続けていたことに慢心して休んでいた時に、姦淫と殺人という人生最大の罪を犯してしまった。神は赦してくださったが、彼が受けた罪の報いとしての犠牲と損失ははなはだ大きかった。多くの牧師やクリスチャンのリーダーが同じ苦い体験をしているのではないだろうか。
勝利は最も危険な罠でもある。まさに油断大敵である。勝利に酔って油断していると、聖霊の油が途絶えて神の力を失ってしまうのである。そのすきを狙って大きな敵が忍びこんでくる。怪力サムソンも大預言者エリヤも大きな戦いに勝利して油断したために、みじめな敗北を喫してしまった。勝利した時ほど、心と身を引き締めて、次のより大きな戦いに備えなければならない。
われわれはこの世では最後まで戦い続け、天国に凱旋して初めて、そこに永遠の安楽が待っていることを知るのである。
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
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