キリストを信じて本当に良かったと思うことの一つは、自分のありのままで生きられることである。自然体でいられることだ。キリストを信じる前は、「この世で生きるためには強い者にならなければならない」と思っていた。
「この世は弱肉強食の世界だ」。ダーウィンの進化論によって自然淘汰が科学的真理とされ、生存競争の論理でしか生きるしかないと思わされていた。
無理してでも強くなろう、強く見せようとして虚勢を張っていた。だが、虚勢を張りつづけることは、非常に疲れる。ある時から疲れ果ててしまった。緊張の連続で、心に平安もなければ、愛も喜びも湧いてこないのだ。「なんとむなしい人生か」と嘆いて生きていた。
裁判でも、相手に勝とうとして、どうしても虚勢の張り合いになる。「アメリカの裁判は、提出書類の重量と弁護士の声量できまる」などと言われるが、ここにも弱肉強食の論理がまかり通っている。日本も今や、弁護士、検事、裁判官が増えて、アメリカ型の訴訟社会になりつつある。
しかし、社会がどう変わっても、キリストを信じる者はありのままで生きることができる。無理をして虚勢を張り、強く見せる必要はない。自分で強がらなくても、私を強くしてくださる方がいるからだ。
2.ジョニーさん
かつて、来日中の画家でゴスペルシンガーのジョニー・エレクソン・タダさんのスピーチを聞いた。
彼女は17才の時、ダイビング中に首を骨折して、四肢麻痺になり、医師から一生治らないと宣告された。ベッドに固定されて天井を見ているだけという絶望のどん底で、キリストに希望と喜びを見いだした。口に筆をくわえて絵を描く画家として有名になり、今では、車いすで世界中を回って、キリストの福音を伝えている。
「ジョニーさんはとても強い人ですね」と多くの方から言われる。「私は弱い人です。弱いからキリストに頼ります。キリストに頼るから私は強いのです」。彼女はこう答えている。
もう40年以上もつづいている車いすの生活。入浴や着替えなどの一切を人に頼る生活。彼女は毎日、自分の弱さを覚えている。そのたびにキリストに助けを求め、生きる希望と勇気を与えられているのだ。ジョニーさんのキリストにある強い生きざまが、多くの人々を励ましている。
「自分の弱さを誇れる私は、とても幸せです。反対に、自分の強さを誇って、キリストに頼らない人は、とても不幸だと思います」と、彼女は語る。
彼女の体は車いすに固定されていても、心は喜びに満たされ、世界へと自由にはばたいている。「やがて天国へ行った時には、完全に自由な体になるのだ」という希望に燃えている。体が自由でも、ささいな問題によって心を縛りつけられているなら、それはとても不幸なことである。自分の強がりを捨てて、いつもキリストに助けを求めよう。
3.理想に向かって
「ありのままでいい」ということは、状況にそのまま流されてしまうことではない。「どうせ自分は弱い者なんだ。だから、弱々しく生きればいいんだ」ということでもない。
アメリカの政治家フランクリン・ルーズベルトは、39歳の時に、突然小児麻痺にかかり、足から背中にかけて激しくしびれ、ベッドで寝たきりの生活が数ヶ月もつづいた。その結果、政界から引退せざるを得なくなった。
一生つえに頼らなければ歩けない弱さに甘んじて、政治の道をあきらめることもできた。だが、「政治家として社会正義を実現するのだ!」という強い神の使命感を持ちつづけたルーズベルトは、7年後政界に復帰し、ニューヨーク州知事になった。
後に、大統領になったが、大恐慌の嵐が吹き荒れる中、ニューディール政策を打ち出して、信仰によって世界的経済危機を救済した。第二次世界大戦では、ファシズム勢力から世界を守り、米国政治史上もっとも偉大な大統領の一人と言われている。
神は、神の子どもたちに強くあって欲しいと願っている。あらゆる状況においてそれぞれの個性と賜物を十分に発揮し、力強く生きて欲しいと願っている。「世の光」として輝き、 「地の塩」の役目を果たして欲しいと願っている。
私たちが強くあるべきなのは、必ずしもこの世の「生存競争」に勝ち抜くためではない。裁判で勝ちつづけるためでもない。オリンピックで金メダルをとるためでもない。
この世の競争や勝ち負けを超越して、神から与えられた使命に生きるためである。ジョニーさんやルーズベルト大統領のように、さまざまな試練に強く耐え抜いて、神の栄光を現すためである。
私たちは皆、神の願いを自分の願いとして生きるべきである。でも、神の理想はあまりにも高くて、人間の力では決して到達することができない。理想に向かって進めば進むほど、ますます自分の弱さを自覚せざるを得ない。
自分の弱さを自覚する時こそ、全能の神に頼るチャンスである。神の力は、弱いところに完全に現れるからだ。
自分の弱さを誇ろう。キリストの強さを誇るためである。
・・・「主が言われた。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたし宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(Ⅱコリント十二章九、十節)
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」