私は「ばあ」の葬式後、最上医院の離れで行なわれていた家庭集会に初めて出席した。「神は愛である」ことを感じる温かい集まりだった。
しばらく出席するうちに、ハモンド先生が一枚の紙に「罪」という字を、火星人のようなイラスト入りにして書き、見せてくれた。そして「あなたは罪人。これはあなたにそっくりでしょ?」と片言の日本語で教えてくれた。
それまで私は、自分の名前のとおり、この義によって栄えると思っていた。特に教会に行くようになってからは、その度合いは増していた。父には正しく生きるように育てられ、東亮吉先生には正義感を、阿世知のおじさんには厳しいしつけを、キリスト教会では愛と親切の心を教えられてきた。また自分でも幼い時から、人の迷惑にならないように、まっすぐに生きてきたという誇りをもっていた。それなのに「あなたは罪人だ」と言われ、失礼な人だと思い、二度と教会へは行かないつもりで帰った。
人間が罪人であり、人の心が汚いことは分かっていた。しかし教会に通っているので、いくらかでもみんなよりましだと思っていた。一方で、宣教師は自分の心の奥を見たのだと考えると、惨めな気持ちになった。思春期であり、Hなことも考える。行ないこそなかったが、雑食みたいに手当たり次第に本を読みあさり、古本屋と図書室が大好きな少年だった。だから行為としての罪はなくても、思いとしての罪はあると分かった。そして宣教師にあなたは罪人と言われたのは、教会に来るなという意味だと思った。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。