私が十歳の誕生日を七日後に控えた八月二十六日の午後、母の様態が急変した。「義之ちゃん、お母さんが…。すぐ帰ってきて」と、近所のおばさんが呼びにきた。「おっかん、死ぬな。死なないでくれ」と心の中で叫びながら、私は息の続くかぎり走った。私が母の家に駆け込むと、せんべい布団に寝ていた母は、薄く目を開け、手をしっかり握ってくれた。「義之、ごめんよ」。何でこんな時に謝るんだと思いながら、私は「うん。いいよ」と答えた。「しっかり後のこと頼むね。よろしくね」。母は、最後の力を振りしぼるように私の真っ黒にやせた腕を握り、そのまま息を引き取った。「おっかん」と叫んでも、聞こえてくるのは、蝉時雨だけ。あっけない別れだった。苦労だらけの悲しみと貧乏のどん底、三十七歳のまだ若い生涯は、いのちがけで守り通し、愛し抜き、そのためだけに生きた人生だったかのように、私の腕をまだ離さないままだった。
真夏ということで、翌日はもう野辺の送りだった。私は幟を持たされて先頭を歩いたが、無性に悔しかった。墓穴に形ばかりの柩が下ろされると、「義之ちゃん、お母さんに最後のお別れよ」と一握りの土を渡された。「おっかん」と声を出さずに叫び、心で泣いた。悔しかった。人の愛のはかなさを知った。死ねば終わり、何もかもなくなってしまうのだ。虚しい、虚ろな気持ちだけだった。もうだれにも頼れないし、だれにも分かってもらえない。ひとりで生きていくしかない。絶対に泣くもんか。涙をみせるもんかと歯を食いしばった。
今にして思えば、母はこの日が来ることを知っていたのだ。だからこそ、心を鬼にし、涙をこらえて、私を父の下へと追いやったのだ。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」(イザヤ49:15)と聖書にあるとおりである。
私は、母が死んだのは「ばあ」のせいだと思った。「ばあ」が私を母から引き離したからなんだ。私がそんな目で「ばあ」を見つめていたころ、「母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや」と言う歌を聞いた。この人は何がそんなに悲しいのかと思った。そして、一向になつこうとはせず、相も変わらず聞かれたら返事だけしていた。辛かったのは「ばあ」のほうだったのではと気がついたのは、クリスチャンになってからだった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。