一方で創世記15章では神とアブラハムの間でイスラエルの民を祝福する契約が結ばれたことが記されている。
ハロルド氏は「申命記28章では50節にわたってイスラエルが主のことばに聞き従わない場合のさばきの内容が書かれている。64節では『聞き従わなければ、すべての国々に散らす』と書かれてあり、それをイエスが新約で語っていた。イエスの預言では旧約の基本契約が引用されていた」と説いた。
ローマ書11章26~29節でパウロはイスラエルの民がさばかれるものの、「神の賜物と召命は変わることがなく、彼らは、先祖たちのゆえに愛されている者である」と説いている。
ハロルド氏は「ユダヤ人たちが福音を受け取ることができなかったとしても、神の愛される民であるという地位は変わらなかった。父祖たちのゆえに、神に愛される民となった。パウロはここでアブラハム契約のことを語っている。アブラハム契約とモーセ契約の間には大きな違いがある。アブラハム契約は創世記15章でアブラハムとその子孫たちの間にどのように契約が結ばれたかが書かれている。神がアブラハムの子孫と共に歩む契約がなされた。アブラハムの子孫に土地を与えるという約束は無条件の約束であり、決して破られることがない恵みの契約であった。神のユダヤ人たちに対する大いなる約束であり、モーセが受けた契約よりも、アブラハム契約の方が強力である。だからこそ神はユダヤ人が(イエスを十字架に架けたという)最大の罪を犯しても、父祖たちのゆえに、彼らを愛されるのである」と説いた。
ハロルド氏はイスラエルの回復について、エレミヤ書31章10節を引用し、「教会こそがメッセージを携えて聞くべき諸国に対してイスラエルの回復を語らなければならない。ユダヤ人の離散を許したもう神様と同じ神様が、回復のときにユダヤ人を再び集められ、ご自分の土地へ住まわせるのである。ユダヤ人が再離散することまでは、許されてはいない」と説いた。
ローマ書5章20節でパウロ使徒は「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる」と説いている。マタイ24章14節では、全世界に福音が伝えられてから、終わりの日が来ることがイエスによって預言されている。
ハロルド氏は「終末はイエス様の再臨と共に行われる。神様がこの地に帰ってこられるまでに、エルサレムの住民が主を待ち望まなければならない」と説いた。
マタイ25章では、イエスの再臨に際して10人の乙女、タラント、イエスが裸でいたときの3つの例え書かれている。
ハロルド氏はこの箇所について「長い時間の間僕たちが待っていた中で、花婿、主人、そしてイエス様ご自身ガ帰ってくる情景が書かれている。10人の乙女は、イエス・キリストの教会の姿を表している」と説いた。
10人の乙女のたとえ(マタイ25章)は、教会が聖霊にどのように関わってきたかを意味する
花婿を迎える10人の乙女のたとえについてハロルド氏は、「信じる者に対する個人的ひとりひとりに対するさばきという観点がある。教会が、『油』に対してどのように対応したかということ。油とは聖霊。教会が、聖霊の導きに対してどのように反応したのかという問いがある」と説いた。
ハロルド氏は現代のキリスト教について「イエスと私、神と私という個人的な関係であるという価値観が強くなってしまっている。聖書的なことを忘れて、個人の救済にだけ焦点を当てれば、教会同士の争いがなくなるという誤った視点が中世ヨーロッパで生じた破滅的なカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争の時代に生じてしまった。その結果ローマ書11章26節にある『イスラエルはみな救われる』という御言葉が見落とされるようになってしまったのではないか」と指摘した。
イスラエルの救いについては、旧約聖書でもイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ゼカリヤ書など至るところで預言がなされている。
ハロルド氏は現代のキリスト教においてイスラエルの救いを読み解く問題として新約聖書と旧約聖書が分離してしまっていることを挙げ、「ローマ11章でパウロが語った終末預言、使徒の働き3章の救いの預言が、旧約聖書を開くための『窓』となっている」と説いた。
聖書には諸国へのさばきが書かれている
ハロルド氏は旧約聖書で国家全体のさばきについて語られていることを知ることによって、新約聖書の救いをより良く知ることができると伝え、「イエス様も旧約と新約の継続性を語っており、その根幹たるものは、旧約の数々の文脈の中にある。聖書の中で発見し得るものの中には、私達自身の国家に対する預言も含まれている。(終末の時代にあって)それを熱心に探し求めなければならない」と説いた。
ハロルド氏はそもそも国家という存在が聖書史上初めて出て来た時代について、「ノアの洪水の時代まで遡る。創世記10章に70カ国の名前が出て来た。70人の名前が列挙されている。ノアの息子であるセム、ハム、ヤペテの家系について書かれている。聖書的に見て一番最初に諸国と言う概念がここから生み出された」と説いた。
そのような諸国に対して、黙示録22章2節では「木の葉が諸国の民をいやす」と預言されている。
ハロルド氏は、「神様はひとりひとりを愛されると同時に、多様性を愛される。彼ら自身が神様からいただいた恵みを無視し、安逸をむさぼり、高慢になった。それぞれが神様から独立された存在だと思うようになり、バベルの塔を建てるに至った。神様と対抗したバベルの住民に対して、神様は祝福を残された。諸国を祝福する仕組みはユダヤ民族から生まれた。神様の主権に基づき、自分自身を低くした上でユダヤ民族を尊うべきである。ユダヤ民族をのろう者は、神のさばきを自動的にもたらしてしまう(ヨエル3・1~4、14~21)」と説いた。
ユダヤ人の救いについて、ハロルド氏はゼカリヤ書13章1節、14章2~4節を引用し、「神様の赦しの中にさばきがある。非常に厳しい御言葉であり、驚くべき終末の情景が書かれている。ユダヤ民族がとても追いやられて、神様に叫び求めるとき、聖霊が注がれるようになり、盲目のベールがユダヤ人から取り除かれ、刺し通されたお方を見ることができるようになる。イエス様の御足がオリーブ山の上に立つようになる。全世界にある諸国が、(イスラエルへの対応に関して)聖書の文脈に沿った決断をしなければならない。多くの国々がさばきの谷へ導かれている。しかしすべての国がさばきの谷へと行く必要はない。イスラエルに対して敵対してはならない。ユダヤ人の歴史への無知によって行ってしまう事柄を心から悔い改め、そのような時にあっても、エルサレムを包囲するその勢力に私達の国家はならないように。どうか日本が『羊』の国でありますように。今後本当の意味でドイツと日本が真の同盟を築く時が来ている」と呼び掛けた。
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