国内マスコミでは、日本政府が震災による損害額は25兆円にも上ると見積もっており、復興費が莫大にかかるということを誇大に報じている。このことについて、久世氏は経済学的視点から、東日本大震災の損害額25兆円という規模について、「日本の国民総生産(GNP)のわずか5パーセントに過ぎず、毎年日本経済は500兆円くらいの所得を生んでおります。その中から毎年1パーセントづつ注ぎこんでいけば、5年で25兆円は完済することができる額です」と述べた。
マスコミが日々紙面で震災や多額の国債が積み重なっていることについて、「日本経済崩壊」、「日本が破産する」などと騒ぎ立てているが、これは日本政府が国債として借金をしている額を返済する際のわずかな金利を支払い、残金を清算しなければならないことへの危機感が政府内で現実として生じていることを過大に報じているだけであり、日本政府が発行する国債の大方の債権者はそもそも日本国民であるため、本質的な問題は、債権者の「投資先の問題である」と指摘した。日本政府は国債の返済が困難になることを防ぐため「復興税」なるものを付け加えようとしているが、これについては「大震災に託けて増税を行おうとしているのではないか?」と疑問を投げかけた。
東日本大震災に伴う今後の日本を考えるときに、「限られた角度からの議論に惑わされず、先の方を考えるべきである」と警告した。先の方を考えるためにも歴史の流れの中から将来を予想し、可能性を見出すにはどうするべきかを考える姿勢が大切であるという。
久世氏は「経済」というものについて、動物と人間を対比し、「人間は食べるだけを超える存在であり、食べる以上に得られることのできた利益が『経済余剰』となります。この経済余剰がどのくらい生み出され、誰が何の目的に使うのかを伝えているのが歴史であるといえるでしょう」と述べた。
その上で日本史を振り返り、「日本は弥生時代から経済余剰があり、弥生時代に生み出された経済余剰を用いて互いに戦争を起こすようになりました。その戦争が治まらないため、ひとりの女王卑弥呼を定めることで、ようやく国が治まるようになりました」と説明した。その後、平安時代、戦国時代、徳川時代と歴史が変遷していく中でも、相当の経済余剰が生じた。明治時代の新政権は徳川時代を「暗い時代」であったと宣伝したが、結局はそのように国民に伝えることで明治政府が今後の「富国強兵」策に経済余剰を国民の同意を得てふんだんに使用できるようにしたいという目的があっての宣伝であったと説明した。
明治時代となり、黒船来襲によって開国せざるを得なくなるまでの日本は、鎖国状態であり、その中で経済余剰が戦争に使われることよりも大衆文化に使われるようになったため、浮世絵や歌舞伎など日本の文化が高まるようになり、現代の日本の芸術・漫画文化を培う土台となったという。東日本大震災で世界各国が進んで日本に支援を行おうとするようになったのも、「日本文化が世界に広がって、日本という国に親しみ、あこがれて、愛情を持っている人がたくさんいることの表れである」と述べた。
また、経済学の視点から日本のマスコミ報道を振り返り、マスコミがバブルの崩壊や破産大国日本などと騒ぐのは、「金融資産の投資先がない」ことがその原因となっているだけであると説明した。結局経済システムの流れに滞りが生じ、これまでの投資先によるリターンが見込めなくなることで、投資先を他に変更しようとする動きが生じる。しかし投資先がどこにも見つからなければ、物が売れなくなり、物が売れなくなれば景気が悪くなることにつながる。今の日本は、国内での投資よりも中国など海外へ投資する方が、リターンが大きいため、海外に金融資産を投資しようとするようになっているという。その結果国内投資が減少するため、国内の学生の就職難が生じているのであり、その分日本企業の投資の結果、中国など海外の学生の就職状況が良くなってきているという。
また投資先としての選択肢が最終的にどこにもなくなると、行き先のない経済余剰が「軍事力」として投資されてしまう危険性に懸念を示した。久世氏は、経済学的視点で社会に生じる事象を読み、「金融資産の投資先」、「誰がどこに経済余剰を投資しようとしているのか」を見つめることで、歴史の流れがわかり、歴史を生み出す原因は経済余剰にあると指摘した。
久世氏はこれからの日本について、日本の歴史を振り返り、「過去の敗戦や日本国憲法から見ても、軍事力に投資することはできません。残るのは文化でしかありません」と述べた。江戸時代の日本の経済余剰が文化のために投資されたのと同様に、現在生み出されている経済余剰を日本の文化のために投資し、日本が「文化大国」となることがこれからの日本の進むべき道であるという。
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