正木弥
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
神様はどんな罪人も滅びてしまうことを望まず、悔い改めて御子キリストを信じるなら、子とし、天の御国での永遠のいのちを与えようと約束してくださっています。このような意味で、万人は神様から愛されています。
交通事故や事件などで亡くなった人の子の作文に「天国のお父ちゃんへ・・・」と書かれることが多い。また、テレビに映る芸能人の告別式のどの弔辞にも「天国で安らいでください」とか「天国でまた会いましょう!」といった呼び掛けがなされます。
神は、“恐るべき方”というよりも“畏るべき方”である、といえます。“恐れる”とは恐ろしいという感情についての判断ですが、“畏れる”とは事情に基づく態度であって、正しく敬う、とか、正しく重んじる、ということです。
「どの教会へ行ってもいい」のではなく、「どのキリスト教会に行ってもいい」のです。“教会”と名がついていても、天理教会、PL教会、円応教会、金光教会、世界救世教教会はキリストの教会ではありません。
キリスト教会の主な役目は1)信徒が成長してしっかりと信仰の道を歩めるよう、良い証し・良い奉仕ができるよう教育すること。2)非信徒にキリストの福音を宣べ伝えること。そのための人的・物的拠点となるよう、教会を立ち上げること。
神は、自然の恵みをはじめとして、出自や健康や体力の恵み、能力、才能の恵みを思いのままに与え、その上に、機会とか巡り合わせとか出会いとかを組み合わせ、財・富・地位・名声などを思いのままに与えます。
呪文はのろいの言葉です。相手が何か不幸な状況になるように求める言葉です。悪意、敵意が土台にあります。これに対して“祈り”は真実なる神との会話です。畏れと愛とをもって遠慮なく、自分の心の中にあることを申し上げる言葉です。
「アーメン」とは、ヘブル語で「然り」とか「真実」とかの意味の言葉です。自分が祈った場合に末尾に「アーメン」と言うなら、「今祈ったことは真実です(つまり、本当に心から言いました)」という趣旨になります。
もちろんあります。悪い欲望のための祈り、御心にかなわない祈り、聞かれるまでまだ途中にあるときの祈りなどです。私たちは、自分のしている祈りが神のみこころにかなうものであるのか、そうでないのか、常に点検しながら祈るべきでしょう。
その通り、神は私の心の中までちゃんと見ています。良いことも、悪いこともご存じです。ただし、私たちの心の中はころころと変転を続け、なかなか留まらない、定まらないのです。
基本的には、聞かれます。ですから、まず神を信じて祈るべきです。真剣に祈るべきです。熱心に祈り続けるべきです。単に欲望の追求のためでないなら、まして、最終的に神の栄光につながるものならば必ず聞かれます。
ごく簡単に説明します。礼拝とは、神の民が集まって、公的に神と会見するときである、といえます。その礼拝に民は畏敬をもって臨み、神を賛美し、神のみこころを確認し、神の救いを喜ぶものです。
外見は立派に見える人も、内実は罪人です。外見はいやな人ももちろん罪人です。人は外見によらない、みな内心に罪を持った存在なのです。それを外にはうまく隠せる人と表してしまう人の違いです。
人間の普通の生活は、目から、耳から、口から、要するに五感のすべてから情報が入ってきています。テレビの声、電話の音、飲食のこと、家周りのこと、ご近所との会話、仕事の思い。
これは例えば、いかめしい城門みたいなものかもしれません。近づく人にある種の覚悟を求めるところがあります。しかし、怖じることなく門を叩いて中に入る者は、中の優美な庭園、壮大な城郭、見晴らしの天守閣を歩むことができるのです。
聖書は、旧約聖書がヘブル語がほとんど、ほんの一部がアラム語で書かれています。ヘブル語はいわゆるユダヤ人の言葉であって、旧約時代のすべてを通じてあまり大きな変化がありません。
聖書は広く、壮大です。天地万物の創造があり、人間の創造、男と女、その結婚があり、神の命令(掟・戒め・律法)があり、人間の反逆(失敗・堕罪)があり、自然の敗懐があります。神の約束があり、信仰があり、その実現・報いがあります。
聖書は前後千数百年の間にわたり、しかもおおむね中近東の各地に生きた40数人の著者への啓示をまとめたものです。この時空の隔たりを考えると、本来ならたくさんの食い違い、齟齬(そご)、つじつまの合わない点が出てきて当然です。
聖書ならどんな聖書でも結構です。新約聖書だけの聖書でも、新約聖書と旧約聖書の両方がついているものでも、分冊聖書といって、例えば、ヨハネ福音書だけの聖書でも構いません。ただし、次の幾つかの点には注意してください。
聖書に人名や地名が多数出てくるのは、それが事実の書である証拠です。作り話では、こんなに多数思い付かないし、また書こうともしないでしょう。聖書は架空の書ではなく、事実の書です。